育児 × 介護 = “戦略的”二世帯同居!への道
Step26:「ここで働かせてください(義母と嫁で)!後編」(未経験からの重労働介護職)実際にやってみた!
周囲からの猛プッシュと持ち前の流されやすさ(第25話 参照)で、ある日突然、今まで考えもしなかった介護職のパートを始めることになった私、甘木サカヱ。介護について曖昧なイメージしか持たずに初出勤を迎えた私を待っていたのは、特別養護老人ホームの入居者数十人分、数時間ぶっ通しのオムツ替えでした……。
体力的にも精神的にも限界まで消耗し、ヨレヨレになって帰宅した私。
一緒の施設で働こうと誘ってくれた義母には悪いけれど、これはちょっと私には無理かもしれない。事務職か、せめて身体介護の少ない、義母の勤務するデイサービス部門に異動させてはもらえないだろうか……とにかく相談してみよう……。そう考えながら、疲労で重い足を引きずって帰途につく私。このときはまだ、義母がとんでもない爆弾を抱えて家で待っていることなど、思いもしませんでした。
帰宅した私を出迎えてくれた義母は、私が吐露したい仕事の辛さについて口を開く間もなく、こう言ったのです。
「私、やっぱり身体が辛いから、あそこの施設辞めるわ」
絶句。
しばらくのあいだ「えっ」「あっ」と意味のない単語しか発せない私がようやく「……まだ1週間ですけど、辞めるんですか……?」と喉から搾りだした言葉に、義母はこともなげに頷きます。
「お年寄りの身体を支えるのが、膝にくるのよねぇ」
「……でも、お義母さんはオムツ替えとかはしないですよね?」
「トイレの介助があるから、危ないのよ」
聞けば、すでに退職の意向を事務所にも伝えたとのこと。義母があまりにあっさりと言うので、それ以上は問い詰めることができませんでした。ただし口には出せなくても、心の中は(裏切り者……!)という気持ちでいっぱいではありましたが……。
一緒の施設で働くはずだった義母が辞める。しかも勤め始めて1週間で。
(この上私まですぐ辞めたいなんて……言いにくいな?)
あっさりと見切りをつける決断力のある義母とは違い、気弱で、嫌なことを先延ばしにする癖のある私ですから、義母に続いて辞めると言い出す勇気はとてもありません。
(まあ、頑張ってしばらく続けてみて、どうしても無理だったらそのときに、辞めればいいか……)
こうして、一緒に頑張るはずの義母にはあっという間に置き去りにされ、孤立無援で始まったのが、私の介護職ライフでした。
すぐにでも辞めたいと思いながらの仕事でしたが、(人間、慣れるもんだなぁ)と思ったのは、5回目の出勤のころでした。排泄物の臭いに必死に耐えながらオムツ替えをしていたのが、いつの間にか平気になっていることに気づいたのです。少しずつ手際も良くなってきたし、入所している高齢の方のなかには私の名前を憶えて「若いのにえらいねぇ」「笑顔が気持ちいいね」などと優しい声をかけてくれる方もいました。
かたや、辛い経験もたくさんありました。認知症の症状が重い方には、コミュニケーションが成立しないだけならまだしも、こちらは何もしていないのに暴言を吐いてくる人や、オムツ替えを嫌がって暴れる人もいます。それまで身近に認知症の人がいなかった私は、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けました。
(誰だってこのようになる可能性があるんだな……。義父母だって今は元気だけれど、年齢的にいつ同じようになってもおかしくないんだ)
症状も性格もさまざまな入所者のお世話をしながら、こう思わずにはいられませんでした。
私たち夫婦が義父母との同居を決意したとき、将来、介護が必要になることは覚悟していたはずでした。しかし、寝たきりで一日中奇声を上げ続けるおばあさん、誰かが毎日自分の部屋に入ってきて布団や服をみんな盗っていってしまう、と一日中訴え続けるおじいさんなどを前にして、私の覚悟などびっくりするほど甘いものだったことを否応なしに気づかされたのです。
介護の仕事を始めるにあたり私は、これで自分でも義父母の介護が自宅でできるようになるかもという期待を抱いていました。しかし実際に要介護度の高いお年寄りをお世話するようになってつくづく実感したのは「家族が面倒を見るのには限界がある」ということです。
仕事だから、お金をもらっているから、家に帰れば開放されるからこそ、笑顔でお世話できる。
これが家族で、24時間一緒にいて、きちんと介護ができるだろうか?乳幼児の育児だって24時間ノンストップだけれど、子どもはいずれ育つ。そう遠くない未来、少しずつ手が離れるはずだという希望が持てる。でも介護はどうだろう?あと何年、下手したら何十年続くかもわからない日々に耐えられる人は、とても少ないのではないだろうか。
同居を始めたときは「せっかく一緒に住むのだから、最期まで家で過ごしてほしい」とふんわりとした理想を抱いていた私ですが、介護の仕事についてはじめて「何が何でも家族が介護することが最良の選択肢ではない」と思うようになったのでした。
そうしてひと月が過ぎ、ふた月が過ぎ……いつの間にか、私のパートは我が家の生活リズムにすっかり組み込まれていました。週に3~4日、朝から昼下がりまで出かける母を、最初は後追いしていた息子もすぐに慣れ、義父母と楽しく過ごせるようになりました。義母はというと、パートを辞めてほどなくして自分の体力に見合った訪問ヘルパーの仕事に就き、今日に至るまで十年近くイキイキと働き続けています。あまりに決断が早く、しかも悪びれない義母に反感も抱いた私でしたが、今になって思うと、自分に合わないと見るやすぐに進路を変えた義母の判断は正しかったのだと思います。
結局私は、第二子を妊娠して肉体労働ができなくなるまで、この施設でのパートを続けました。
辞めてもう10年近くになりますが、今でも施設のそばを通ると、いつもやさしい言葉をかけてくれたAさん、発語もなく寝たきりだけど、食事介助の時に私が古い歌を覚えていって歌うと、目をカッと見開いて見つめてくれたYさん、若い人にオムツ替えをさせるのが情けない、申し訳ない、と毎日言い続け、慰めると涙を流して微笑んでくれたKさんなど、もう亡くなってしまった、たくさんの入居者さんのことが思い出されます。
同居の義父母はまだまだ元気ですが、さすがに年齢なりの衰えも見え始め、介護が始まる日もそう遠くはないかもしれません。
本当に貴重な経験をさせてもらったな。と、思いがけず奇妙な巡りあわせに、今となってはつくづく感謝する日々です。