パリのマルシェと日本橋・浜町〜人形町の小売店。“精気”を養ってくれた2つの場所
毎日の食の準備で、意外と時間を取られるのが「買い物」。でもこの時間を楽しむことができれば、食事の準備も心が少し軽くなるかもしれません。文筆家で生活料理人の猫沢エミさんは、東京で住んでいた下町・日本橋でも、現在住んでいるパリでも、小売店やマルシェでの買い物を大切にしているそう。猫沢さんがこの買い物を通して大切にしているものについて、綴ってくれました。
東京の高層マンションから降りて、日本橋の小売店をまわる
50歳を過ぎてから再びパリに移住して、2年8ヶ月が経とうとしている。長いブランクを経て戻った二度目のパリ生活へのスイッチに時間がかかったり、同居しているフランス人パートナーとの習慣の違いに戸惑ったりしていた再移住したての頃に比べると、心持ちも環境もずいぶん落ち着いてきたなと感じる今日この頃だ。
ところで、近年の私の職業は文筆業が中心(ミュージシャンや映画解説者など、いくつかの職業を持っている)。明日をも知れぬフリーランスの身で仕事がいただけるのは大変ありがたいことなのだけど、せっかくパリへ引っ越したというのにデスクばかりにかじり付いて、なかなか外出する時間がないのが悩みどころ。
いや、この悩みは今に始まったことではない。私の基本的な生活スタイルは、パリへ引っ越す前に住んでいた東京・下町の日本橋界隈時代と、何ひとつ変わっていない!と、今さらながら驚いてしまう。
東京に暮らしていた頃、私の住処は隅田川沿いの高層マンションの23階で、日当たりも見晴らしも最高だった。が、同時にそこは地面からあまりにも遠く、街の喧騒や人の気配を感じることのできない“空中庭園”でもあった。
そんな場所で一日中書き物ばかりしていた私にとって、日本橋浜町から人形町にかけての小売店を食材の買い出しに巡る日課は、なによりの気分転換だった。家の近くには24時間営業の大型スーパーもあったが、特に食材に関しては、その種類ごとに地元密着型の小売店を細かく回って買い集めていた。
なぜ時間もないのに、そんな面倒なことをしていたのか。私が欲しかったのは、23階のマンションでは感じることのできない“精気”だった。特にひいきにしていた八百屋は、自身で毎朝市場に行き、旬の新鮮な野菜・果物を仕入れている安くてこだわりのある店だったので、めずらしい野菜があればお店の人に食べ方を教えてもらったりして、野菜と一緒にヒューマンな日常会話や街のエネルギーも受け取っていた。
日本橋の小売店からパリのマルシェへ
そしてパリに落ち着いた現在は?というと、ひいきの店がパリのマルシェ(食料青空市場)に変わっただけで、相変わらず家にこもりがちな私はマルシェに通うことで精気を得ている。
と、ここでパリのマルシェについて、少し説明しておこう。1860年、パリ右岸の北マレ地区に、商店を持たない51の商業者を置いた《Marché des Enfants Rouges -アンファン・ルージュのマルシェ》がパリで最古の屋内マルシェとして開かれ、現在では市内の72か所で、週に2〜3回立っている。家から歩いて行ける距離のマルシェは2か所。2つのマルシェが立つ曜日は週に5日もあるので、ほぼ毎日通うことができる。
私が30代で一度目に移住した2000年初頭は、フランス語もまだ今のようには使えず、友達と呼べる人も少ない、いわばフランス暮らしの修行時代だった。その孤独で意欲だけが満ち溢れていた頃、伝わらない自分のフランス語にプレッシャーを感じて気持ちが下向きになった時など、私は必ずマルシェへ向かった。
市場に立つ人ならではの独特な節回しで、今日のおすすめ品をがなりたてるムッシュ。その語気に負けない強気な老マダムの粋な切り返し。値札はすべて手書きで、フランス人の手書き文字を見慣れていないと、なんて書いてあるのかちっともわからない。そのうえ数字の発音を聞き取ることも難しいから、マルシェは耳の訓練にはもってこいの場所だった。そして度胸も。
店の人の中には、私の下手なフランス語に対して、あからさまに嫌な顔をする人も少なくなかったが、ここは日本とは違い“お客様は神様”ではない。だからプライドを持って商売を営む店側に、そのプライドに見合った客を選ぶ権利があるのだと私は受け止めて、会話の間合いや食材の知識を懸命に学んだ。ああ!今思い出すと、なんて青い大人の青春期だろう(笑)。
マルシェと小売店、共通するエスプリ(精神)の交換
あれから20年近く経ち、二度目のパリ生活の復帰第一弾としてまず始めたのも、やはりマルシェ通いだった。実践でのフランス語会話にはブランクを感じたものの、1年を過ぎた頃には、昔のカンがぐんぐん蘇ってきて「おお、これこれ!」という手応えがあった。そして一度目のパリ移住期よりも、ずっと気楽にマルシェでの買い物を楽しんでいる自分に気がついて、「私の何もかもが成長したんだろうな」と思った。フランス語だけでなく、お店の人(他者)を尊重すること、食材についての知識、そして私という等身大の人間がそこにいる確かな存在感も。
もちろんその成長は、一度目のパリ移住期のマルシェ通いだけでなく、東京・下町時代にも同じく培われたはずだ。私が足繁く通っていた日本橋界隈の老舗小売店の女将さんたちは、礼節を重んじる厳しい方が多かった。それは、店に並んでいる商品に自負があり、訪れる客にもそれに見合った品位を求めるから。
そこには売り買いを成立させる《物》と《金》の交換以上に、美しいエスプリ(精神)の交換があり、そうして手に入れたものは自然に愛着も湧く。インターネットで買い物が簡単にできるようになった昨今でも、できるだけ私が実店舗で買い物をするのには、こんな理由がある。
人生はやってみようとする勇気に次の扉を用意してくれる
二度目のマルシェ通いには、愉快な相棒も現れた。フランス人のパートナー、ヤンだ。
楽しみながらも武者修行のように、ひとりでずっと通っていたマルシェが、手を繋いでふたりで向かう、もうひとつの新しい場所へと変わった。50歳を過ぎてから、こんな展開もあるだなんて「人生ってわからないもんだわ〜」とつぶやきながら、今日もひいきのスタンドを巡って力強いフランスの野菜を買う。
素材そのものに力があるフランスの食材たちは、余計な調理がいらず、シンプルなレシピでおいしく仕上がるので、日々の食事の支度は東京時代に比べると楽になった印象だ。
そして、移住前にはどうなるのかと心配していたパリでの日々の日本食キープに関しても、昔と比べて日本の食材が手に入りやすくなって、なに不自由なく暮らしている現在。案ずるより産むが易し。人生は、やってみようとする勇気に、次の扉を用意してくれるものだから。
まな板の上に置かれた太くて立派なポワローねぎ(西洋ねぎ)は、ピカルディーの農家の直売スタンドで今朝買ったものだ。野菜や果物にも動物と同じく命としての親しみを感じる私は、どうやら生き物に触れることでエネルギーをチャージしているらしい。どんな場所でどんなふうに育ったのか?野菜の出所をマルシェでちゃんと質問して、知った上でおいしく料理する。
私という人間が、今日も生きるために命を捧げてくれる食材と語らいながら気負いなく料理する時間は、東京時代と変わりなく、今日もパリで続いている。