食の描写が、小説に与える奥深さとは?角田光代さんに聞く“料理と人”の関係
食と料理を題材にした小説やエッセイを数多く執筆する、人気作家の角田光代さん。もともとは肉好きの偏食家で、野菜や魚は大人になってから克服したのだそう。料理を覚えて以降、小説の表現の幅が広がったと言います。食事のこだわりも含めて、お話を伺いました。
お話を伺った人:角田光代さん
1967年生まれ、神奈川県出身。90年のデビュー後、05年に『対岸の彼女』で直木賞など多くの文学賞を受賞。食に関する作品は、エッセイ『今日もごちそうさまでした』や、レシピつき小説『彼女のこんだて帖』など多数。また、「オレンジページ」で食やライフスタイルにまつわるエッセイを長年連載している。
恋愛を機に偏食を克服。野菜を「義務スープ」で摂取した時期も
ーー角田さんは、「毎日9時から17時まで」と時間を決めて執筆されているそうですね。食事の時間も規則正しいのでしょうか?
体質的に、空腹でも満腹でも具合が悪くなるんです。目の前が真っ暗になったり。それを防ぐために、食事は朝7時、昼12時、夜19時と決めています。
ーーきっちりですね!栄養バランスも意識していますか?
極端に偏った食事にならないようにはしているんですけど、栄養バランスにはそれほど気を遣っていないですね。生野菜があまり好きじゃないので、サラダ的なものは食べないですし。
ーー昔は野菜や魚をあまり食べない偏食家だったことを、エッセイなどで明かされています。克服のきっかけは?
30代の頃に好きだった人が、食の趣味が正反対だったんです。私は肉が好きなんですけど、その人は肉が嫌いで、きのこが好き。一緒に食事をしたくて努力するうちに、魚や野菜も食べられるようになりました。ただ、野菜は積極的に食べたいとは思わなかったので、昔は「義務スープ」というものを作っていましたね。野菜を5〜6種類、みじん切りにして入れるんです。夏ならズッキーニや枝豆やトマト、冬なら大根とか。あとはベーコンを入れたり。コンソメで味付けしても、塩だけでもいい。今は味噌汁をよく作ります。
夫と一緒か、一人で食べるか…メニューを変えて食事を楽しむ
ーー普段、角田さんがよく作るメニューはありますか?
夫(音楽家の河野丈洋)と食べるかどうかで変わりますね。食の趣味がすごく違うんです。彼は脂がダメで、好きなのは魚と、もやしなどの白っぽい野菜(笑)。夫は制作期間になると仕事部屋にこもりきりで食事も別々なので、二人のときは彼の趣味に合わせて、一人の時期は自分の好きなものを集中して作ります。羊肉やチーズを使う料理とか。夜は炭水化物を食べないので、おかずの品数を多めに。
ーー仕事を17時で切り上げるとはいえ、帰ってから品数を多く作るのは大変ではないですか?
いやいや、肉や魚のメイン料理に、冷奴とか、おひたしとか和えものとか簡単なものを添えるだけなんです。例えば、私はアボカドが好きなので、酒盗と和えて海苔で巻くとか。アボカドは明太子やキムチ、納豆と混ぜるだけでもおいしいので重宝します。ほかには、グラタンが好きなので、なんでもグラタンにしたり…。
簡単なメニューでパッと思いついたのは、山芋をすって、刻んだキャベツとじゃこや桜えび、チーズを混ぜて焼いたものとか。あと、数年前に夫がくれたホットクックもすごく便利で、専用の調理本を見て、肉じゃがとかサバの梅煮とかをけっこうよく作っています。
ーーサッと作れる品のレパートリーが豊富ですね。角田さんが参考にしているレシピサイトはありますか?
「白ごはん.com」「みんなのきょうの料理」「オレンジページnet」などですね。実際に料理するときだけじゃなく、仕事が行き詰まるとよくレシピサイトを見ています。書籍だと、高山なおみさんのレシピ本を愛用しています。
小説の食事シーンで描ける“人間性”とは?
ーー昔から料理はお好きですか?
年齢によって違いますね。好き嫌いが多かった頃はあまり作らなかったし、当時は小説でも食事のシーンをあまり書かなかった。でも、偏食を克服して料理を覚えたら、新しい扉が開いたように「楽しい!」と。それが私にとっての料理の第1期で、いろんなレシピを覚えたのが第2期。第3期になると、もう旬の食材もわかるし、いろんな外食で味も覚え、もっともっと作りたいという意欲があって。その頃に書いたものは「料理が好き」と書いていたり、新しい食材に挑戦したりもしてますね。
それが、40代後半くらいからゆるやかに、「自分の料理にちょっと飽きてきたな」と…。実は、今は、できるだけ料理をしたくないんですよね。「料理好き」とも自分からは言わなくなりました。どんなに頑張ってもお店のようには作れない、と悟ったせいもあります。
ーーたしかに、自分の料理って「想定内のおいしさ」ですよね。
そうなんですよ(笑)!夫が食に対して冒険しないのもあって、保守的なものばかり作っているうちに、だったら買ったほうが楽しいかな、とか。
でも料理を覚えたことで、小説のテクニックとしても使えるようになりました。食材や料理の種類、その工程を知ることで、表現の幅が広がったんです。
ーーというと?
どういう料理を作るかで、その人の性格を表すことができることがわかりました。料理の種類を多く知っていると、例えば「ていねいに暮らしている人」と「ていねいに暮らしている自分を見てほしい人」とでは作るものも違うだろうな、と考えていくことができる。その人が誰かに作っているなら、人間関係も表せます。
ーー主人公が夫から抑圧されている『坂の途中の家』では、小さな子どもがいるにもかかわらず、手のかかる料理を何品も夕食に出していて、閉塞感のある関係性が伝わってきました。そうした細かい表現力は、どう研ぎ澄ましていくのでしょう?
やっぱり自分で料理を覚えたことで、“食事と人間性”を結びつけられるようになりました。例えば『空中庭園』は、家族の団結を重要視するお母さんが出てくるんです。「隠し事はしないように」みたいな。そのお母さんは、餃子やシュウマイなど、みんなで包む料理をよく作らせるんですね。それは、“家族”を包むという行為でもある。もう一つ、実はみんな秘密を持っている話だから、何かを包む=大事なことを隠している象徴としても使えるんです。
ーーなるほど…!読み手にとっても、ストーリーを深く味わう要素になりますね。
そう思います。私の作品以外でも、食事のシーンには必ず何かしらの意味が込められていると思うんです。印象的な作家を一人挙げるとすれば、井上荒野さん。小説における食べ物の扱い方を怖いぐらい分析されていて。例えば、“こうしていれば料理してるでしょ、という感じがする食べ物”とかを書くのがすっごくうまいんですよ。逆に食事内容を詳しく書かない作家もいますよね。そういう小説を読んでいるとときどき「何を食べているのかお願いだから教えて!」という気持ちになります(笑)。
あと、小説に出てきた忘れられない食べ物ってあるじゃないですか。気になって実際に作ってみても、本の方がおいしそうだったなと思ったり。小説の筋は忘れても食べ物のことは鮮明に覚えていることもあるので、食事シーンに注目してみるのは、おもしろい小説との付き合い方だと思いますね。
ーーいろんな意味が込められた小説の中の食事は、予めメニューを考えてから書くんですか?
どういう人間性を描きたいかによって、書きながら考えます。料理をするかしないか人物設定として決めていなくても、書いているうちにわかってくるんです。
ーー自分の趣味を反映することは?
ないですね。小説を書くときは、登場人物は何を作って食べるのか、自分の視点を一切入れずに書くことを心がけています。
ーーエッセイはいかがでしょうか。
エッセイだと、「友だちとこういうものを食べておいしかった」というように楽しく書くときと、人生哲学のように踏み込んだ考察を書くときとで分かれますね。
「おいしすぎる料理は疲れる」その意味は
ーー料理や食事で大切にするポイントは人それぞれです。味重視か、人と分かち合うのが楽しいのか。角田さんはどうですか?
私は「日常的においしいもの」が好きなんですよね。人と食べるなら、感性が同じ人がいい。そういう意味で、「予約困難店を奥の手を使って予約して…」という世界が、私はこわいんです。
ーーこわい?
その世界にいる人は、金銭的にも時間的にも労力をかけているわけですよね。一年前から予約しているとしたら、当日に何があっても行く。その熱意が、私には半分異世界に生きているように見えてこわいんです。否定する気持ちじゃなくて、すごく根性が必要だから、私にはできない、と。
私にとって大事なのは、震えるほどにはおいしくないこと。毎日食べても飽きないおいしさが好きです。震えるほどおいしいものって、たまにならいいけど、疲れてしまうんです。日常を超える経験なので。温泉旅行に似ているかもしれません。楽しかったけど、帰りにぐったり…という。もし一週間、おいしすぎるものを食べ続けたら、私は体も気持ちもつらいですね。
ーー食事は「おいしければおいしいほどいい」というわけではないんですね。そのほかに、角田さんが大事にしていることはありますか。
「台無しな食」を避けたいですね。味よりも、食事をする相手と食べ方の価値観が合うかどうかが私にとっては重要なんです。
ーーなるほど。ちなみに、「食べてしまった!」と罪悪感を覚えるような食事はありますか?スイーツやジャンクフードなど。
うーん…しいて言えば、なんでもない日にケンタッキーを買ってきて夕食にしたら、罪悪感があるかもしれない。なんのイベントでもないのに買ってきていいのか、みたいな。
ーーそれはカロリー的に?
いや、私の中でケンタッキーって、“ケンタッキーを食べるイベント”のときに口にするもの、という印象があるんです。日常の夕飯にしていい食べ物なのか、ちょっとわからなくて。でも食べてみたいなって気持ちがあって、夫に「食べてもいいものかな」と相談したら向こうもわからないみたいで、「どうなんだろう…?」と。話し合った結果、ようやく外食ができるようになってきた頃だったので、もしまたお店で食べづらいタイミングがあったら「ケンタッキーを夕食に食べるイベント」を開こうという結論に至りました(笑)。
手料理であることは「食べる楽しさ」に直結しない
ーー角田さんのご自宅は、宴会がしやすいように設計されているんですよね。手料理をふるまうこともありますか?
20代の頃は宴会のときに作っていました。当時は人に食べてほしいという思いが強くて。ただ、今はあえて作らず、できあいのものやテイクアウトの食べ物を出すようにしています。私の中で、何を食べるかではなく、どういう雰囲気の中で食べるかが重要になったからだと思います。
私が作ると、残さないようにしなきゃと気を遣われるのも申し訳ないし、かと言って残ってしまっても嫌だし。みんなが遠慮せず食べたり残したりできるものを用意したいので、一切作らずに、全部買ってきましたよと説明も添えます。
ーー人のために作る料理と自分のために作る料理で、意味合いが異なるんですね。
ぜんぜん違いますね。やっぱり人が食べるっていうことが大きな意味を持ちます。自分だけのためだったら、けっこうなんでもいいので。
ーー普段から料理をする人ほど、できあいの食事に対して罪悪感を感じることがあると思うんです。でも、「楽しく食べたい」という気持ちに向き合うと、心が軽くなりそうだなと思いました。負担になると楽しくないですもんね。
無理しないことがいちばんだと思います。結局は続かないですし、やっぱり楽しいのが大事。私も気乗りしない日や忙しい時期は、外食やテイクアウトにしています。
ーー料理自体の楽しさは、どこに感じますか? 献立を考えることなのか、作ることなのか、はたまた食べることなのか。
私は作る工程です。「これを作ろう」と考えるのは、旅行の前に「あそこに行こう、ここにも行こう」と計画を立てる楽しさと似ていて。例えば牛すじ大根を作るとなったら、「牛筋をあの店で買って、圧力鍋で煮て…」と考えて実践することが楽しいです。
ただ、作りたいものが食べたいものと一致しないんですよね。「できた、嬉しい!」とは思うんだけど、それほど食べたくはなくて、作ったから食べますという(笑)。そこが一致している人はうらやましいです。
ーー最後に、角田さんにとって料理をする時間はどういう意味を持ちますか?
料理を作るのと小説を書くのは、脳の使う部分が違うんですって。料理の脳を使うと、小説の脳がリフレッシュするらしいんです。だから、「これが作りたい!」という衝動に駆られて料理をすることは、体だけじゃなく頭も、小説を書くことから離れられる時間だと思います。