森の恵みと300個の餃子
「アイヌネギっていうんだよ。」
叔父にそう言われた幼い私は、急な斜面に群生する、すずらんの葉のような形の山菜を手にして大興奮していた。
ぶかぶかの大人用軍手は泥だらけだ。それどころかジーンズのひざも、おしりも、顔のあちこちまで泥で真っ黒になって、それでも手の中の青い菜っ葉は、勲章みたいに輝いていた。
北海道の春は遅い。私が生まれ育った地域では、雪解けが終わり、遅い春の盛りを迎えるのがようやくゴールデンウィーク頃だ。
まだ肌寒い5月の連休、今から30年程前、小学生の私は毎年決まって山の中にいた。
家業で忙しい両親に代わって、私に山菜採りを教えてくれたのは若い叔父夫婦だった。
子どものいない二人は、長い休みになると私や親戚の子どもたちをあちこちに連れて行ってくれた。
小旅行や海水浴や夏の夜の虫取り…思い出はたくさんあるが、山菜採りについては「山はあぶないから、もう少し大きくなったらね」と焦らされてようやく連れて行ってもらったので喜びもひとしおだった。
「おいしい香り」で思い出したのが、雪解けの山中と、採りたての山菜の濃い匂いだ。
春の山ではふきのとうやわらび、タラの芽、うど、ヤマブキなどたくさんの種類の山菜が採れたが、我々の一番のお目当てはギョウジャニンニク。地元ではアイヌネギと呼ばれるものだ。ニンニクやネギと呼ばれる通り、強い刺激のある香味が特徴の、柔らかい青菜だ。
山ならばどこにでも生えているわけではない。叔父夫婦はお世話になった人からとっておきの群生地を教えてもらって、季節になると毎年、せっせと山へ通っていたのだった。
でこぼこの砂利道を車で走る。うっそうとした茂みを進むうち、とうとうその道も途切れる。ここに車を停めて、あとは自分の足で歩くしかない。
長靴にジーンズの裾をしっかりと仕舞い、首に汗取りのタオルを巻く。軍手をはめ、背中のリュックには水筒とおにぎりにお菓子、山菜用のビニール袋と大きなカッター。替えのタオルや着替えもある。
背の丈ほどある薮をこぎ、低木やつる植物を掴みながら、斜面を這うように登ったり降りたりする。顔中が細かな傷でかゆくなる。数分もしないうちに汗だくだ。
ある程度大きくならないと山には連れて行けない、というのは決して大袈裟ではない。この過酷さはハイキングというより登山に近い。先頭をゆく叔父の背中を見失わないように必死で食らいついていく。叔父の腰には大きな音で鳴る携帯用ラジオが吊り下げられている。冬眠明けで空腹でうろつくヒグマよけだ。
なぜそんなに命懸けで山菜を採りにいくのか、昔と違ってスーパーにはいくらでも新鮮な野菜が売っているのに、と、大人になって改めて不思議に思うが、雪解けの山にはなんとなく人の興奮を誘ってやまない魅力があるのだろう。
山の土はすべりやすい。上から降り積もる落ち葉で一見歩きやすそうに見えても、徐々に分解が進む腐葉土がぐずぐずに崩れ、油断するとあっという間に足を取られてしりもちをついてしまう。それだけならいいけれども、運悪く斜面だと数メートル転がり落ちたりする。柔らかい土だからそれほど大きな怪我はしないけれど、尖った木の枝で目を突いたりしたら大変だ。
自分が歩いた足跡の、黒々とした新鮮な土の香りが鼻につく。体を支えるために掴んだツルの青臭い汁が手に染みる。山を歩くと、普段はすっかり油断している生き物としての五感が目を覚ます気がする。特に嗅覚。山の匂いは、いろんな植物や動物たちが醸し出すものすごい情報量を持っている。
全身汗だく、泥まみれになりながらしばらく歩くと、ようやくお目当てのアイヌネギの群生地にたどり着く。
小川が流れる両脇の斜面に、びっしり青々とした葉が生えているのを見ると、疲れも吹き飛ぶような気がした。
休憩もそこそこに、ビニール袋を持ってアイヌネギの採集に取り掛かる。深い緑の葉を掴むと、赤っぽい薄皮に包まれた柔らかい茎が見える。採るのはその茎の根元からで、土の下にある根を一緒に取ってしまわないように、と毎年しつこく言い聞かされていた。アイヌネギは根付くまでの成長が遅い。来年も同じ場所で山の恵みをいただくための大事な教えだ。
慎重に一株をつかみ、根本からちぎる。途端にネギのようなニラのような強い香りが鼻をつく。
他の香味野菜と同じように「食べると精がつく」と言い伝えられるアイヌネギだが、この香りの説得力は凄まじい。香りだけで疲れが取れるようにすら錯覚する。
せっせと採集を続けると、やがて大きなビニール袋もいっぱいになった。それでも斜面にはまだたくさんの葉が茂っている。
叔父や叔母はこの斜面を私に任せ、わらびやふきのとうを探している。足手まといになりがちな子どもをわざわざ連れてくるのは、採集の労働力として当てにしているからだな、と私も年を重ねるごとに理解してきた。
それでも、大人に頭数として頼りにされる、というのはとても誇らしいことだった。
採集が一段落すると、小川のそばの倒木に腰掛けてお昼ごはんを食べた。
母が握ってくれたおにぎりの海苔の香りと、体に染み入るような塩気。そして噛み締めたお米はこんなに甘かっただろうかと思うほどおいしかった。
デザートがわりに、なぜか決まって缶入りのファンタオレンジを叔父がくれた。一緒に食べたチョコレートの甘さがまた格別だった。食べ物の匂いのするゴミを絶対にそこらに放置しないように、これも口が酸っぱくなるほど注意される。環境に配慮する、という意識はまだ低い時代だったが、ヒグマに余計な刺激を与えないよう、身を守るための知恵だったのだろう。
たっぷりの山菜を持っての帰路は、来る時より荷物も増え、疲れも溜まっているはずだったが、不思議にもあまり苦労した記憶がない。収穫の喜びが疲れも吹き飛ばしていたのだろうか。それでも帰りの車の中、一安心した私がぐっすりと眠り込んでいたことは言うまでもない。
いつも山菜採りを終えると、母の実家である祖母の家に親戚が集まって待ち構えていた。そうして何人もの手で山菜の下ごしらえをしたり、保存用に漬け込んだりする。大量のアイヌネギは何にするのかというと、我が一族では餃子と決まっていた。
生のままザクザクと細かく刻み、ひき肉と他のいろいろな野菜を刻んで混ぜて、餃子の皮で包む。なにせ人数が多いので、生半可な量ではない。豚ひき肉も肉屋からキロ単位で買ってきて、タライのような大きなボウルでこねる。台所から居間まで、狭い祖母の家中がアイヌネギの刺激臭で満たされた。
子どもたちには餃子を包む仕事がある。楽しくお手伝い、というと聞こえはいいが、「ほら遅いよ!もう焼くよ!」「これ具が少ない!」「もっとちゃんとくっつけて!」と、大人たちからしきりに檄が飛び、なかなかのスパルタ教育であった。私は素人にしては餃子を包むのがかなり早くうまい方だと自負しているが、それは子どもの頃からのこの修練のおかげである。
親族総出で作り上げた餃子は、多い時にはなんと300個を超えた。それを、家中の折りたたみテーブルを繋げて作った食卓に、ホットプレートを3台並べてどんどん焼くのである。たまにブレーカーが落ち、居間は真っ暗になって軽いパニック状態に包まれた。餃子の焼ける香ばしい香りに包まれながら手探りで懐中電灯を探していた様子は、今思い出してもおかしい。
そうして大騒ぎをしながら、ようやく焼き上がった餃子をほおばると、あんなに刺激的だったアイヌネギがまろやかに甘くとろけて、食欲をそそる香りに変化していることにいつも驚いた。
餃子とごはんだけでお腹が張り裂けそうになるくらい満腹になり、座敷に敷いた座布団の上で早々と寝入ってしまうと、大人たちがいつも毛布をかけて寝かせておいてくれた。
私がいま餃子を作る時、具材は白菜やしいたけ、ネギ、それにニラだ。アイヌネギはたまに時期になるとスーパーで見かけても、ほんの一握りで驚くようなお値段で、とてもあの頃のように贅沢に使うことはできない。たくさんの餃子をせっせと包みながらいつも思い出すのは、あの時の早春の山と、鮮烈な山菜の生命力あふれる香りのことだ。