10分間でスイッチON、3時間かけてスイッチOFF
オンとオフの切り替えがとても苦手だ。
やらなければならないことは山積みなのに、ついついダラダラと時間を浪費してしまう。たまに緊張する用事があると何日も前からその事ばかり考えて緊張してしまうし、終われば終わったで、ああすれば良かった…こうすれば良かった…といつまでもぐじぐじと考えこんでしまう。
そのくせ私は、やたらと多種類の仕事を抱え込みがちだ。現在は二世帯同居家庭の主婦として、二児の母親として、そしてこういった書き物仕事をするライターとして、更にわりと遠距離の電車通勤を伴うパートタイマーとして、あとはたまに知人からの依頼で単発の仕事も請けたりしている。もはや何足のわらじを履いているかすら自分でもよくわからない。人生の成り行き上こういう事態になっており、それ自体にはまったく不満はないのだけれど、オンオフの切り替えが上手くないというのはやはり日常を送るうえで不利である。
私なりに一応、工夫はしている。たとえば、通勤のある日のONスイッチは朝の化粧だ。
もともとあまりマメに毎日化粧をする方ではないけれど、だからこそ、これから電車に乗って仕事に行くぞ!というスイッチを入れるには化粧は最適の手順だ。特にアイメイクは闘争心が掻き立てられるような気がして好きだ。いや、別に仕事で誰かと闘うわけではないのだが、通勤ラッシュ時の電車などはなかなか殺伐とした雰囲気で、負けるもんか私は強いもんね、という気合でもって向かわねば朝から疲れ果ててしまう。
考えてみれば人間は太古の昔から、その民族の衣装とともに独特の化粧を文化として持つことが多い。大袈裟にいえば、化粧は自分以外の何者かになるスイッチを押すためにあるとも言える。朝の弱い私の腫れぼったく眠そうな目も、アイラインを引きマスカラを塗れば、多少はきりっと意思のありそうな印象になる(当社比)。よし、私も電車で戦える。ただの通勤にここまで気合が必要なインドア派の悲しみはともかくとして、こうして通勤のある日はいつも、化粧で自分に戦闘スイッチをONしている。
出勤時間が決まっている通勤日はこれでいいのだ。問題は、作業工程から時間帯まですべてを自分で管理しなくてはならない書き物などの自宅での仕事の場合だ。
職場に出勤してしまえば仕事をするより他ないが、自宅には誘惑がたっぷりである。スマホにおやつにサブスク動画配信。自室の作業机のすぐ後ろを振り向けばベッドが、柔らかいマットと布団の口を魅惑的に開いて(寝起きのままベッドメイクなどしないので)、さあおいで今すぐあなたを甘い眠りの世界にいざないましょう、と手招きしてくる。この誘惑に打ち勝つには並大抵の理性では足りない。
というわけで私は、自分の理性と相談をした結果あっさりと白旗を揚げて、書き物の仕事は自宅外で行うようになった。ノートPCだけを持って、もう仕事をするしかないという状況に自分を追い込み、無理やり仕事のONスイッチを入れるのである。
以前はファミレスやカフェに、できるだけお客の少ない時間帯を選んで作業のために訪れていたが、最近は飲食店に長時間滞在するのも少し不安なので、ショッピングセンターの駐車場に停めた自家用車の中で、窮屈な体勢で膝の上にノートPCを開いて仕事をしたりしている。自宅で好きな時間に仕事ができるのがフリーランスの最大のメリットだと思うのだが、その利点を自らぶん投げる非常に非合理な生態だ。
しかし周りを見渡すと、フリーランスになる人に限って、この自分でスイッチを入れることが苦手な人が非常に多い印象だ。だいたいみんな締切直前になってやっとスイッチがONになり、そしてうんうん呻いている。私だけじゃない、これはフリーランスという生き物の習性なのだ、と声を大にしてお伝えしておきたい。ちなみにこの原稿も、もちろん薄暗い駐車場で背中を丸めながらせっせと書いている。
さて、ONスイッチの入れ方はこのように半ば強制的なのだけれど、それに比べてスイッチOFFの手順は実にゆっくりとしている。
通勤のある日は、自宅に帰るまでほとんどずっと、車窓に流れる夕暮れの街並みを眺めながら好きな音楽を聴いている。途中でカフェに寄り道することも多い。テイクアウトにして、駅のホームの人の少ないところで、何かやましいものでも摂取しているかのように温かい香り高いコーヒーを啜ったりもしている。朝の化粧で無理やりONにしたスイッチを、今度はゆっくりとボリュームのつまみを絞るように、数時間かけてOFFにしていくイメージだ。
自宅に帰りついても、一気に張りつめた気持ちがほどける、ということはない。雑事は山積みだし、義父母との同居でもあるし、帰宅、即スイッチオフ!というわけにはなかなかいかない。それでもやっぱり、自宅の玄関をくぐればホッとする。靴を脱いで手を洗いうがいをし、部屋着に着替え、まとめていた髪をほどくという細かい過程ひとつひとつに、知らず知らずのうちに張りつめていた気持ちを少しずつほぐしていく作用がある。
ここで、眠りにつく前にいつもヨガで心身を解きほぐしています、とか、寝室でお気に入りのお香を焚いて精神統一をしています、とか書けるような格好いいルーティンがあれば良かったのだが、あいにくそんな素敵な習慣は持ち合わせていない。ただ、散らかった寝室で、朝、起き掛けに慌てて飛び出したままの状態のベッドに、布団も毛布も枕も全部もみくちゃにして飛び込むのがたまらなく幸せだ。無駄にごろんごろんとベッドの上で転がれば、夏にはタオルケットや涼感シーツのひんやりした感触が、冬ならば羽毛布団の弾力と毛布のうっとりするような毛足が全身をくすぐるのがたまらない。
夏場はさらに、いわゆるアイス枕を追加することも多い。冷凍庫で一日冷やしておいたものを肌触りのよいタオルにくるんで、枕の上に追加する。猛暑の日中にじりじり熱されていた首から後頭部までが気持ちよく冷えるので愛用している。
同様に寒い冬の日は、湯たんぽや、肩に乗せるホットパット(電子レンジで温めるもの)を使ったりもする。一日酷使した頭や首肩や足を、せめて温めたり冷やしたりして慰労しながらベッドの上で目を閉じる。スイッチが完全にOFFになる、至福の瞬間だ。数時間後にはまたスイッチを入れなければならない事実にはとりあえず蓋をして、つかの間、精神と肉体の弛緩…だらりとした時間を楽しもう。