クリスマスのチキンの思い出

わが家の笑顔おすそわけ #10 「クリスマス」〜5歳さんの場合〜

LIFE STYLE
2020.12.22

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ケンタッキーのチキンの予約が始まると、今年もクリスマスがやってくるんだなと感じる。近所のケンタッキーではクリスマスの当日になると予約をしていたお客さんでごった返す。

「なんでクリスマスになると人はチキンを食べたくなるかしら?」

そんなことを思いながら、僕もその行列に並んでいるのだけど、多くの人にとってクリスマスに食べるチキンは「幸せの象徴」なのかもしれない。

僕にとっても、クリスマスのチキンの思い出はある。

僕が小さい頃は、クリスマスに母が鶏の丸焼きを作ってくれた。実家はそんなに裕福ではなかったけれど、養鶏業を営んでいたので鶏はめちゃくちゃいた。お金はないが鶏は本当に、売るほどいたのだ。

クリスマスになると父が活きの良い鶏を捕まえて、しめていた。そして僕も小さい頃からその作業を隣で見ていた。

小学校四年生くらいのときだったと思う。

父に、「やってみるか?」と聞かれた。僕が頷くと、父はしめ方をていねいに教えてくれた。

父が鶏の両羽を掴んで抑えながら、「思いっきり力を込めるんだぞ」と僕に言う。しかし皮膚はかなり硬くて、想像していたようにスパッとは切れない。もう一度力を入れる。今度は本気で力を入れる。

この時の「ゴリッ」という感覚。命を奪うことをダイレクトに感じたその感覚を、大人になった今でも覚えている。

僕の手はふにゃふにゃと力が抜けてしまったが、切られた鶏は最後の力を振り絞って暴れていた。動かなくなるまでの数分間をじっと見守る間、横で見ていた父の頬に、鶏の血が付いていたのをよく覚えている。

そのあとは、寸胴に沸かしておいた熱湯で茹でて、羽をむしる。羽はそのままだと固くてなかなかむしることができないので、熱湯につける必要があるのだ。だが、このときに強烈なにおいがする。いわゆる「獣のにおい」だ。ちなみに父は、これをかぎ過ぎたせいで、鶏肉を食べられなくなったそうだ。こんなにたくさんの鶏を飼っているのに鶏肉が食べられないなんて変だな〜なんて幼い頃は思っていたが、この手伝いをするようになってからは、その理由がよくわかるようになった。一度かいだら忘れられないくらいインパクトのあるにおいなのだ。

羽をむしり終えると、見慣れた「鶏肉の形」になる。ここから解体である。解体といっても、我が家ではクリスマスの鶏は丸焼きと決まっていたので、各部位に切り分けたりはしない。あとで詰め込む刻み野菜を閉じ込められるように、なるべく小さく切り目を入れて、内臓を取り出すのだ。

取り出した内臓は、色々な形をしていて面白い。そして、ツルツルとしていてとても綺麗だ。

例えば砂肝は、ゴツゴツしていて筋肉の塊のような臓器なのだが、包丁で中を切り開いてみると中から砂が出てくる。中に溜め込んだこの砂で、餌をすり潰して消化するのだ。

鶏の餌には牡蠣の殻をすり潰したものを配合する。栄養もなさそうな貝の殻をなんで入れるのだろう?と不思議に思っていたが、砂肝を切り開いたとき、「こういうことになっていたのか!」と理解した。

あとはレバー。新鮮なレバーは触っても気持ちいいし、見た目がとにかく綺麗。子供ながらに、「この内臓は良いな」と思っていた。僕の推しの臓器です。

そして一番好きだったのが、「きんかん」。

「きんかん」は焼き鳥屋さんでの呼び方だが、卵になる前段階の黄身が、ブドウの房のように卵巣にくっついたものだ。見た目がコロコロとしていて金柑に似ているのだけど、さわり心地はぷにぷにとしていて気持ちがいい。

これらを洗ってザルに入れると、キラキラとした臓器が並んで見える。僕はこの一連の作業がとても好きだった。

すべての処理が終わった鶏肉を家に持ち帰ると、母がさっそく調理に取り掛かる。

刻んだ野菜をギュウギュウに詰め込んで、穴を凧糸で閉じ、温めておいたオーブンに入れる。しばらくすると部屋中に香ばしい香りが漂う。オーブンを開けると、こんがりきつね色に焼けて、表面がパリパリとしている鶏の丸焼きが現れる。

鶏の丸焼きがテーブルの真ん中に置かれると、それだけで家の中の雰囲気が一気にクリスマスになる。

母が取り分けると、兄弟たちは「うまい!うまい!」と言いながらかぶりつき、父はその様子を見ながら日本酒を飲んでいる。

僕も食べようとすると、一瞬だけ、鶏を寸胴に入れたときのあのにおいを思い出す。しかしその肉を口の中にいれてしまえば、やっぱり鶏肉はとびきりおいしかった。

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久しぶりに父に電話をして、今も鶏肉が食べられないのかを聞いてみると、「煮た鶏肉は食べられないけど、焼けば食べられるようになった」と言っていた。

頬に鶏の血が付いた父の横顔と、あのにおいが今も忘れられない。

これが僕にとっての、クリスマスのチキンの思い出である。

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