アウトドアがわからない

わが家の笑顔おすそわけ #7 「アウトドア」〜甘木サカヱさんの場合〜

LIFE STYLE
2020.09.17

昨今、ソーシャルディスタンスを守れるレジャーとして、アウトドア人気が高まっているらしい。

根っからインドア派が多いわが家でも、今年に入ってテントを購入したのをきっかけに、にわかにアウトドア熱が高まりつつある。

普段は忙しくてなかなか先の予定が立たない夫も自宅勤務が多くなり、「このチャンスを逃せばもう二度と家族でキャンプなんて出来ないかもしれない」と、県内のキャンプ場を予約した。

子どもの頃は、夏になると両親や親せきたちが毎年のように海水浴キャンプや、渓流釣り、山菜取りにも連れていってくれた。

私の地元は北海道の山間部である。日本有数の大自然の中で遊びつくした経験があるのだから、関東郊外のきれいに整備されたキャンプ場でのアウトドアなぞ軽い軽い、お母さんにドンと任せておきなさい、くらいの気持ちでいたのだった。

しかし、ふと不安になった。

私には、「アウトドアレジャー」がよくわからない。

キャンプ当日のスケジュールは、昼過ぎにチェックインしてテントを張り、炭火をおこしてバーベキュー。以上である。次の日、起床後はやはり炭火をおこしてパンを焼いたりして朝食。そして片付け。以上である。火を起こしてものを食う以外のことをしていない気がする。

もちろん、テント設営やバーベキューの準備は楽しいだろう。しかし、わが家はもう子どもたちも大きく、戦力になると期待できるぶん、それほど時間もかからず準備や片付けを終えることができるだろう。

じゃあ、余った時間は何をしたらいいのだろうか?という不安が、頭をよぎったのである。

キャンプ場の案内をよく読むと、ハイキングコースがあるらしい。初心者にも安心の平坦な道で、1周1㎞ほどの……もしかして、それはただの軽い散歩ではないだろうか。

アスレチックや砂場もあるが、写真を見たところ、どうも小さな子ども向けのようだ。

そうだ、焚き火はどうだろう、私が小さな頃はよく、焚き火の火を絶やさないようにと夢中になって周りの小枝などを拾っては火にくべる遊びをしたものだ……と、思ったが、キャンプ場の注意書きには、「※焚き火は専用の薪(別売り)のみ使用可能です。場内で拾った枝などを燃やすことは禁止です」の文字がある。合わせて花火も、さらに言えば木登りも禁止らしい。なるほど安全性などを考えるとそうなるのもよくわかる。わかるのだが。

じゃあ私たちはいったい何をして過ごせばよいのだろうか。

いや、キャンプというのはそもそも、そんなに予定をぎっしりと詰め込むものではなく、焚き火を囲んで穏やかに語り合いながら、ゆったりとした時間を過ごすものなのだ、というのはよくわかる。理想だ。キャンプ場のイメージ画像なんかも大抵そんなシーンである。私だってそうしたい。のんびり火を囲んでアウトドアブランドの金属製のマグに入れたコーヒーなどすすりながら、家族の来し方行く末を語り合いたい。

家族で楽しむキャンプ

しかし子どもたちはバリバリの現代っ子、インターネットどっぷりのデジタルネイティブ世代である。せっかくキャンプに行くのだからスマホやゲーム機は置いていこうね、と約束してあるが、日頃ちょっとしたスキマ時間をネット動画やソーシャルゲームに費やすことに慣れ切っている彼らにしたら、「はいこれからは家族のだんらんの時間です!火を見つめながら穏やかに語り合いましょう!」と言われたところで、時間を持て余すのは目に見えている。

めったにない家族レジャーなのだから、せっかくなら楽しい思い出にしたい。退屈を押し殺しながら、親の自己満足に付き合わされるのもかわいそうである。

私が幼い頃のことを思い返すに、アウトドアで退屈した記憶はない。ゲームも、もちろんスマホもなく、アトラクションのようなものもない中でどうやって過ごしていたのだろうか。

海辺のキャンプでは、強い海風にテントが飛ばされないよう、定期的にペグを確認したり、重石として砂を積んだりしていた。身体が冷えれば炭火にあたり(北海道の海は真夏でもそれなりに寒いのだ)、眠っている間も、間近で絶えず聞こえる波の音に、潮が満ちたり、海が荒れてテントが流されやしまいかと、何度も目を覚ましては真夜中の海を眺めた。黒い油のような海に、波だけが白く泡立つ光景は、昼間のきらきらした海とは別物のように果てしなく、恐ろしく見えた。

山はもっと恐ろしかった。春の雪解けを迎えた山の急斜面は、気を付けていてもあっという間に足を取られるし、何メートルも下に転げ落ちたことも一度や二度ではない。泥まみれになった手や顔を、小川の冷たい水で洗い流した。

大人たちに先導され、やっとの思いでお目当ての山菜の群生地にたどり着く。アイヌネギというニラのような風味の、滋養のある山菜だ。餃子の具に入れたりすると大変美味なのだ。ほかにも笹竹のタケノコや山フキ、ウドやこごみなど…夢中になって採っていると、ふいに大人たちの間に緊張感が走る。

すぐ向こうの藪でガサガサという音がしたのだ。そう、北海道の春の山の中は、冬眠から目覚めたヒグマの庭でもあるのだった。大きな音でラジオをつけたり、クマよけの鈴を着けたりはしていたものの、絶対ということはない。いつヒグマと出くわしてもおかしくない環境だ。

父親に連れられていった渓流釣りも、私は決して川の中に入れてはもらえなかった。水底の足場が不安定で、子どもはすぐに流されてしまうからだ。河原で遊ぶだけでも楽しかったが、やはりヒグマには常に怯えながらの時間だった。幸い、私がアウトドアで出会った野生動物はキタキツネやタヌキ、エゾシカくらいのものだったが、実父は釣りをしている時、川の向こう岸に子連れのヒグマを見つけて慌てて逃げかえってきた経験があるそうだ。

そんな自分の幼少期の記憶をたどり、なるほど、と頷いた。郊外のきれいなキャンプ場に足りないものはヒグマである。いや違う、「緊張感」である、と。

自由に焚き火ができたり、山菜や魚を採って食べたりという楽しさはもちろんだが、あの圧倒的に濃い野外活動の記憶は、なによりもいつ生命が脅かされるかもしれないという緊張感にあったのだ、と改めて感じた。

そうして私の経験したアウトドアと、これから家族で楽しもうとしているアウトドアの間には、広くて深い溝が横たわっていることに、私は初めて気づいたのだった。

しかしそんなことを言っていてもはじまらない。大人たちに連れられて行った昔は緊張感を楽しむ余裕もあったが、私が同じ立場の大人だったら、生きた心地がしないだろう。たとえ今現在、同じ環境でアウトドアに行けるとしても、私には子どもたちを守り切れる自信はない。時代の違いもあるだろう。良くも悪くも昭和~平成初期は、大雑把でおおらかな時代だったのだ。

そんなわけで、身の程をわきまえ、都会的なキャンプを何とか楽しもうではないか、と気持ちを切り替えた私は、様々な準備をした。安全に遊べるバドミントンやフリスビーを用意し、夜に退屈したときに備えて怪談話や笑える小話のネタも仕込んだ。家族で遊べる新しいボードゲームも買った。

これで安全安心、かつそこそこ楽しいキャンプの用意は万全だ!と胸を撫でおろし、ようやくキャンプ当日の朝を迎えた。

キャンプの準備

土砂降りであった。

7月の終盤ならば間違いなく梅雨明けしているだろう、と予約をしたのだが、ご存じの通り、今年の梅雨は異例なほど長かった。

家族一同、がっくりと肩を落としてキャンプ場にキャンセルの電話を入れた。

そんなわけで、わが家のアウトドア経験値はいまだゼロのままだ。
近いうちに必ずリベンジをしてやろう、そして経験を積んでいつかは、緊張感のある本物のアウトドアにもチャレンジしてみたい、と思う日々である。

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