まとまらない日々に、だし巻き卵。
食べものや飲みものにまつわるあたたかな記憶とその風景を、奥村まほさんの言葉で綴るエッセイ「晴れでも雨でも食べるのだ。」今回は、だし巻き卵をうまく作れなかった、そんな日のお話です。
ある日の晩、だし巻き卵をうまく作れなかった。
卵液をフライパンに流し込む。ふつふつしてきたらさっと混ぜる。慎重に折りたたんで端に寄せる。また卵を加えて待つ。まぜる。折りたたむ。端に寄せる。いつもの作業を繰り返すだけなのに、その日はうまくいかなかった。
卵がきれいにまとまらない。新たな卵液を足しても、やっぱりおなじ。何回やってもすぐフライパンにくっついたり、ぐしゃっといびつな形になったり、なかなか固まらなかったりする。ちゃんと層ができている気がしない。不安定きわまりない。
火加減の問題なのか、油の量の問題なのか、はたまた卵液の問題なのか。最初はそういう細かい点について考えたりもした。でもほんとうは、それらはたいした問題ではなかった。たいした問題ではないことを、私自身がいちばんよくわかっていた。
その日の私は、とある心配事のせいで心ここに在らずだった。
だし巻き卵には、作っている人間の感情がそのまま出る。だからうまくいかなかったのだ。
だし巻き卵は得意料理のひとつだ。数年前、卵焼き器が家に届いたまさにその日から。
長い間、ふつうの丸いフライパンで卵焼きを作り続けてきた私にとって、卵焼き器との出会いは革命的といってもいい出来事だった。
卵焼き器がやってくるまで、私が作る卵焼きはオムレツの形だった。オムレツ自体はわるくない出来栄えだったが、カットすると両端に向かうにつれてどんどん小さくなり、長方形というよりは三角形に近い形になる。そこだけがなんだか残念で、テレビに出てくるようなきちんと四角い卵焼きを作ってみたいと常々思っていた。
でも私は、卵焼き器を買おうとしなかった。フライパンで作ろうが卵焼き器で作ろうが味は変わらない。フライパンでも由緒正しい卵焼きの形に近づけることはまだまだできる。卵を焼くためだけに調理器具を増やすのはもったいない。いろんな理由をつけて買わなかった。
私には昔からそういうところがある。便利なツールを見つけても試そうとせず、それまでのやりかたを惰性で維持したり、ボタンがひとつ取れたカーディガンをなんか気持ちわるいなあと思いつつも着つづけたり。現状を変えることによって得られるメリットよりも、現状を変えないことによる気楽さや安心感を優先してしまうのだ。
そんな私がどうして卵焼き器を買ったのか。はっきりと思い出せるほどの特別なきっかけはなかったと思う。Amazonのセールで衝動買いしたとか、その程度の理由だ。ただの勢いとしかいいようがない。結局のところ、なにかをはじめるときには勢いがなによりも大事なのだ。
卵焼き器を初めて使った日、あまりの便利さに私はびびった。まさに文明の利器だと思った。
途中、少しくらいうまくいかなくても、ぐちゃぐちゃになっても、えいやっと卵焼き器に押し込めるように端に寄せておけば、最後には必ず四角い形ができあがる。
私自身は一切変わっていないのに、道具を変えるだけでこんなにも楽に、きれいな卵焼きが作れるのか。私はおどろき、ちょっとむなしい気持ちにもなった。
丸いフライパンの上で四角い形を作ろうとがんばっていた私は一体なにをしていたのだろうと、自分がばかみたいに思えてきたのだ。
そして同時に、そういうものが私のまわりにはまだまだたくさんあるのだろうな、とも思った。悩んでいること、困っていること、不便だな、不快だな、つまらないな、となんとなく思っていること。そのすべてとまではいかずとも、七、八割くらいは環境を変えてみるだけであっさりと解決に向かっていくのだろう。
卵焼き器は、その便利さによって私の怠惰さや勇気のなさを炙り出しつつ、長年の物足りなさをさくっと補ってくれたのだった。
頼れる右腕を手に入れた私は、以前よりも頻繁にだし巻き卵を作るようになった。どうすればおいしくなるのだろう、きれいにできるのだろうと研究するようにもなった。
卵焼き器を使ったからといって、いつもおなじ卵焼きができあがるわけではない。だしの量、塩や砂糖の加減、卵液の混ぜ具合、火加減、加熱時間…。さまざまな要素によって、味もやわらかさも変わっていく。
どんなふうに作っても最後はある程度整った形に焼き上がるが、ていねいに作ればていねいに作ったなあ、雑に作れば雑に作ったなあと見た目や食感から推測できてしまったりもする。
卵をきめ細かくするために泡立て器を使ったり、ごはん屋さんの亭主に教えてもらっただしの量で作ってみたりと、私は自分のだし巻き卵をちょっとずつ進化させていった。
でも、どれだけ研究を重ねても、だし巻き卵のいちばんのおもしろさは、層を一枚一枚重ねていくという単純な作業の中にあった。
今日もだめだめだったなあ、何も進まなかったなあ、どうしようもない人間だなあ、などと思う日も、夕方、西日のさすキッチンに立ち、卵を重ねていくだけで、何かを積み上げたような気がしてくる。完成後は、丸みを帯びた四角形の美しさと、卵の明るくもやわらかい色に癒され、毛羽立っていた気持ちまでまとまっていく。
少なくとも卵だけは積み上げた。
そう思えるところに私はいつも救いを見出している。
だし巻き卵をうまく作れなかったあの夜も、私はある種の救いを見出していた。
ぼんやりとしか書けないが、その日は、私の大切な人にとって大切な闘いの日だった。理不尽に尊厳を傷つけられたと感じる出来事があり、その人は理不尽に真正面から立ち向かおうとしていた。社会において、自分が傷つけられた事実を訴え出るのはそう容易なことではない。
立ち向かったところで、うまくいくかはわからない。立ち向かおうとした人の心が潰れるだけかもしれない。
どうなったかなあ、大丈夫かなあ。
一日中、私の心は落ち着かず、だし巻き卵を作る私の手も、やっぱりおなじように落ち着かなかった。卵をかき混ぜても塩をつまんでも卵焼き器をつかんでも、自分の手ではないみたいだった。
目の前でぐしゃぐしゃになっていく卵、卵焼き器の底にこびりつくがさがさの卵、いびつな形に固まっていく卵焼き。それらすべてが、大切な人の悲しみや怒り、不安でたまらない私の心、波乱めいた一日をそのまま映し出しているような気がしてくる。
でも私は手を止めなかった。
信じていたからだ。
きっと大丈夫。ぐちゃぐちゃになっても、最後は必ずちゃんとまとまる。
どうにかまとまってくれ。まとまれまとまれ。
卵焼き器を握りしめ、祈るように手を動かし続けた。
結局、その闘いは本格的に始まることすらなく終わった。私の手によって四角形に固められた卵みたいなものだろうか。第三者の手によって、よくもわるくも丸く収められたということになるかもしれない。社会では、本来まとめられてはならないものまでまとめられてしまう、あるいはまとめざるをえないようなときもあるのだ。
まとまれ、まとまれ、と願っていたが、想定とは異なるまとまり方に終わり、現実の厳しさを思い知った。その場が丸く収まったからといって、人の気持ちまできれいに収まるとは限らない。
これからもきっと、あるときはまとまらないものを最後にどうにかまとめることによって救われ、またあるときはまとめられたくないものまでまとめられ、ほっとしたり傷ついたりしながら生きていくのだろう。
でも大事なことは、まとまらない想いや日々を、まとまらないままでもいいからだれかと共有していくことなのだろうと思う。
そんなまとまらない思考を巡らせながら、今夜も卵をまとめていく。