うつわの記憶
食べものや飲みものにまつわるあたたかな記憶とその風景を、奥村まほさんの言葉で綴るエッセイ「晴れでも雨でも食べるのだ。」今回のテーマは「うつわ」です。食器棚に並ぶうつわには、たしかに自分だけの大切な思い出が凝縮されているのかもしれません。
食べることは好きだけど、食器にはあまりこだわりがない。好きな作家さんがいるとか、アンティークのお店で買っているとか、そんなふうに一度は言ってみたいものだけど、私はそんなしゃれた人間ではないし、食器にお金をかける勇気もない。そのときそのときに惹かれたものやたまたま手に入れたものを、そこそこ大事にしながら使ってきた。
わが家の食器棚のなかは、ひとことでいえば雑多だ。旅先で買ったグラスやマグカップ、実家から送られてきた角皿、ふるさと納税の返礼品のデザートプレート、洋菓子屋さんのプリンが入っていたココット…。ばらばらだから、棚にしまうのがむずかしい。
本当はブランドや店をそろえたりして統一感を出した方がおしゃれなのかもしれない。形もある程度はそろえたほうが、きっと整頓しやすいはずだ。でも私は、このがちゃがちゃした雰囲気がどうもきらいになれない。値段も形もデザインもばらばらの、雑多な食器たちに、これまで出会ってきた人や土地や風景が、ぎゅっと凝縮されている気がするからだ。
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たとえば、北海道の北一硝子のグラスは学生時代に購入したもので、手にとると当時の心境がよみがえることがある。
旅行のおみやげとしてなんとなく買ったもので、それ自体に大きな思い入れがあるわけではないけれど、社会に出る前の青さや自由さ、潔白さのようなものが、グラスの輝きにふくまれている気がするのだ。銀色の雪景色や冬の冷たく透明な空気も思い出され、なんとなく胸がすっとする。
このグラスは底が丸く、少し触れるだけでころんころんと動く。しかしどれだけ傾いてもかならず振り子のようにもとの位置に戻ってきて、けっして倒れることはないという変わった形だ。
容易に割れないところはありがたいが、その不安定さゆえ普段使いの食器としては使いにくく、食器棚からとりだす機会はめったにない。もっと使いやすいものを買えばよかったと後悔しかけたこともある。
でも、そこがいいのだと今では思う。指先がちょこっと触れただけで揺れはじめる不安定さ。その裏返しともいえる柔軟さとフットワークの軽さ。そして、ここぞというときの強さ。
若さを体現するようなグラスを見つめていると、まぶしいような苦々しいような、なんともいえない気持ちになる。そして同時に、重心さえしっかりしていれば不安定でも案外どうにかなるものなのだなと、気が楽になったりもする。
とはいえ、毎度あれこれ考えていては脳が疲れてしまう。年に数回とりだして「こんなのもあったなあ」と思い出せる今の距離感がちょうどいいのかもしれない。青い日々を振り返ることもまた、そのくらいの頻度で十分なのだろう。
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キティちゃんの顔が描かれた大皿は、社会人になったばかりのころに手に入れたものだ。コンビニのパンを買って集めたシールと交換してもらった。
当時の食生活は、朝も昼も菓子パンばかり。不健康この上なく、飽き飽きしてもいたけれど、シールを台紙に貼りつける瞬間だけは異様なほどいきいきしていた。
「これ、よかったら。」
シールを熱心に集めていることを知った同僚や上司が、わざわざ席に持ってきてくれることもあった。
私はありがたくいただいて、鮮やかなピンクやオレンジのシールが一輪また一輪と花を咲かせるように増えていく様子を上機嫌で眺めた。書類や文房具で混沌とした机の上で、それはひときわポップな光を放ち、職場に通うモチベーションをも高めてくれた。
とうとうシールの花が満開になった日、昼休みにコンビニで台紙と皿を交換した。胸に抱いて職場に帰ると、私は協力してくれた紳士たちの席を回った。
「これ、もらってきました!!いつもシールをありがとうございました!!」
興奮気味に報告すると、みんな笑顔で「よかったね」と反応してくれた。当時の私のテンションは、殺伐とした職場であきらかに浮いていたと思う。
職場に通い続けた証。まわりの人々がやさしかった証。
手持ちの食器のなかではおそらくもっとも安い皿だが、手に入れたときのよろこびは何物にも代えがたく、どちらかといえば掘り起こしたくない出来事のほうが多い職場の記憶をほんの少しだけやわらかなものにしてくれている。
しかも、さすがプラスチック製。がしがし使っても欠けることすらなく、ここまで図太く生き続けているのがすごい。がんばった証は、意外と長くのこるものなのかもしれない。
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そして今。沖縄で暮らした証をのこすようにして、地元のうつわを集めはじめた。食事中は積極的にやちむん(=沖縄の言葉で焼きもの)の皿や箸置きを使い、風呂上がりには琉球グラスでシークワーサージュースやカルピスソーダを飲んでいる。
沖縄の穏やかさをそのまま固めたみたいに素朴で温かみのあるやちむん。夏の日差しや海の輝きと透明感をとじこめたような琉球グラス。買ったばかりなのにしっくりきていて、この土地で生まれるべくして生まれたものなのだなと、使うたびに納得する。
別の土地に引っ越したら、これらのうつわを手にするたびに沖縄で目にした光景の数々がぽこぽこと頭に浮かぶのだろう。今吸いこんでいる昼間のほわんとした空気も、夜にそこらじゅうから聞こえる猫の鳴き声も、パイナップルの甘酸っぱさも、車の窓から見えたエメラルドブルーの海も、すべてが乳白色のベールをまとったように懐かしく思い出されるのだろう。
長く生きれば生きるほどうつわが増えて、食器棚をひらくたびにとりだせる記憶も増えていくのだとしたら、その記憶はできるだけバラエティー豊かにしたい。年老いてあちこち動きまわるのが億劫になってしまっても、大切な人たちがそばからいなくなってしまっても、きっとその記憶がひとつの支えになってくれるんじゃないかと思う。
思い起こすのは楽しい記憶ばかりではないだろうが、死ぬ前に眺めて「ああおもしろかった」と思えるような食器コレクションを形成できるように、目をひらき耳をすませて、この世界にどっぷりひたっていきたいものだ。