私と家族と冷蔵庫
食べものや飲みものにまつわるあたたかな記憶とその風景を、奥村まほさんの言葉で綴るエッセイ「晴れでも雨でも食べるのだ。」今回は、新しく冷蔵庫を買おうとしている奥村さんが振り返る、家族と冷蔵庫の思い出です。
冷蔵庫のことばかり考えている。
今家にあるのは、夫が一人暮らし時代に買った小さめの冷蔵庫。冷蔵スペースと冷凍スペースがあるだけの、シンプルなものだ。コンパクトだから掃除が楽だし、長年使っているから愛着もある。
でも、家でごはんを食べる日が多くなってからは、買い物に行くたびに食材の収納に困り、隙間にぐいぐい押し込む日々。さらに夫がビールに加えて日本酒も買うようになったものだから、お酒だけで冷蔵スペースの3割くらいが埋まってしまい、ますます困難を極めている。
しかも、最近は冷蔵庫の調子がすぐれない。食材を入れ過ぎたからなのか、寿命がきたのか。冷凍スペースの食材が溶けたり、逆に冷蔵スペースの食材が凍ったりと、温度調整がうまくいかない日が増えてきた。
そんなわけで、家計にとってはかなり痛手だけど、思い切って大きな冷蔵庫を買おうと思っている。ちゃんと野菜室があって、製氷室もあって、野菜を新鮮に保つナントカ機能もついている、そこそこ新しい冷蔵庫を。
だから最近は、実家に帰っても祖父母の家に行っても、冷蔵庫とその中身をまじまじと見てしまう。
どれくらいのサイズがいいかなあ。
どのメーカーがいいかなあ。
何をどこにしまおうかなあ。
現実的なことをぼんやりと考えてみるものの、各メーカーの商品について詳しく調べるのはめんどくさい。家電に疎い私の思考はそこでストップし、その後は冷蔵庫にまつわるエピソードをいろいろと思い出していた。
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子どもの頃、私の居場所はテレビと冷蔵庫の前だった。
特に夏休みは手持ち無沙汰な時間が多いので、テレビと冷蔵庫の前を何十往復もしながら毎日を過ごした。
ポケットを叩くとビスケットが増えるように、冷蔵庫の扉を開くたびに甘いお菓子やアイスが飛び出してくるのではないか。
私はいつも心のどこかで期待していた。冷蔵庫を魔法の箱か何かと勘違いしていたのかもしれない。
「さっきゼリー食べたばかりじゃない。何回行っても変わらんよ。冷蔵庫が壊れるからやめてくれんけ。」
母に注意されてもやめられず、見ていたテレビ番組が終わったり口が寂しくなったりすると、私の足はすぐに冷蔵庫に向かった。もはや体が勝手に吸い寄せられるという感じで、ほとんど無意識だった気もする。
何度開けても冷蔵庫の中身は変わらないと頭の中ではわかっていた。
でも、どうしても想像してしまうのだ。
まだまだおいしいおやつが隠れているかもしれない。
私に発見されるのを待ちわびているかもしれない、と。
あの頃の冷蔵庫は、夢とロマンが詰まった場所だった。
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実家の冷蔵庫には、いつも食材がびっしり入っていた。冷蔵庫の真ん中のトレイは父専用のヨーグルトで埋め尽くされ、ドリンクコーナーでは母が沸かした麦茶が存在感を放っていた。冷凍庫にはアイスが何種類も入っていて、なくなるたびに補充された。野菜や肉は買った時の包装のまま無造作に入れてあった。私はそんな雑多な冷蔵庫が好きだった。
食べものへの執着心が強い妹は、他の人に食べられたくないものには必ず黒マジックで名前を書いた。さらには家族一人ひとりに「絶対に食べないでね」と忠告して回った。
「プリンはあの子のだから、絶対に食べちゃだめよ。怒ったら怖いから。」
私がいつものように冷蔵庫の中をあさっていると、後ろから母の声がよく飛んできた。
妹のものだと気づかずに、あるいは魔が差して名前付きのデザートを食べてしまったあかつきには、姉であろうと親であろうと恐ろしい剣幕で詰め寄られた。
「食べものの恨みは怖い」とはまさにこのこと。
記名された食べものを見つけるたびに、めんどくさいなあと思うと同時に、私はなんだかおかしくなって、笑ってしまうのだった。
祖父母の家の冷蔵庫は、実家の冷蔵庫に比べると物が少なくすっきりしていた。高齢の二人暮らしで、野菜は畑で獲れたものを食べていたから、たくさん食材を買う必要がなかったのだろう。
でも、孫が帰省したときには、必ず冷凍庫にアイスがどっさりと入っていた。祖父母はアイスを食べなかったから、すべて私たちのために買ってくれたものだった。ソーダ味の棒アイスやあずきバー、バニラ・アーモンド・チョコの三種類のピノが入ったアソートパックが入っていることが多く、帰省のたびに私たちは歓声をあげた。
きっちりした性格で働き者の祖母は、家族が食事前に必要以上に間食をとることを嫌って目を光らせていたのに、なぜかアイスを食べることは黙認してくれた。
そこにうまく便乗していたのが、食いしん坊の父だ。父は祖父母の家に着くやいなや、「さて、冷蔵庫の中でも見てみるか」とわざとらしく言って扉を開き、私たちに「ほら、アイスあるぞ」とか「食べてもいいんだぞ」などと声をかけた。大人一人でばくばく食べると祖母に怒られかねないから子どもを誘い、「子どもが食べるついでに食べるだけ」という体にしたかったのだ。
私たち姉妹も母も、父の魂胆を見抜いていて、「食べたいって素直に言えばいいのに」とあきれて笑った。そして結局、みんなでおいしくアイスを食べた。
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上京後、一人暮らしを経て二人暮らしを始め、今の冷蔵庫には、かれこれ七年ほどお世話になっている。実家にいた頃、一人暮らしをしていた頃、二人で暮らしている今。それぞれを比べると、冷蔵庫の中身も使う頻度も収納の仕方も、まるっきりちがう。
「本棚を見ると人となりがわかる」と聞いたことがあるが、冷蔵庫は「食」界の本棚なのだろう。住んでいる人々の好みや性格、暮らしぶりをこれほどわかりやすく伝える家電を、私は他に知らない。
自分が食べたいもの。家族に食べてほしいもの。家族と一緒に食べたいもの。冷蔵庫の中にはこれらが混在している。
自分ひとりでは出会えなかった食べもの。それを見るとその人の顔が浮かぶ食べもの。一緒に食べるためにとっておく食べもの。そんな食べものがたくさんあるのは、きっと素晴らしいことなのだろう。
たとえばもし、怠惰な私が一人暮らしに戻ったら、冷蔵庫の中はまた空洞だらけになっちゃうんだろうなあ。
そんなふうに想像すると、ちょっと淋しい。
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大きな冷蔵庫を買ったら、どんな生活が待っているのだろう。
鍋ごと収納できるから、スープを一気にたくさん作れるかも。
大きな野菜やフルーツを今よりも気軽に買えるようになるかも。
夫の日本酒コレクションがさらに増えるかも。
そんなことをしていたら、結局またパンパンになってしまうかも。
子どもの頃は魔法の箱だった冷蔵庫が、今は生活の必需品で、暮らしを映し出す鏡のようになってしまったけれど、大人になってもちょっとは夢を見ていたい。
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さて、そろそろ冷蔵庫の前に向かうとしよう。
扉を開き、冷たい風を顔に浴びたら、目の前にはとっておきの楽しみがある。
そう、執筆後のアイスを頬張るのだ。