本をひらいて、食べに行く。物語に登場するおいしいものたち
食べものや飲みものにまつわるあたたかな記憶とその風景を、奥村まほさんの言葉で綴るエッセイ「晴れでも雨でも食べるのだ。」今回は、奥村さんが食べてみたい「物語に登場するおやつやごはん」のお話です。絵本や小説に出てくる食べものは、どうしてあんなにおいしそうなんでしょう。
世界にはおいしいものが五万とあるが、その中でも特に、喉から手が出るほど食べてみたいものがある。
私はそれらを小さい頃からずっと思い描いてきたのに、一度も食べたことがない。そして、これからも一生食べられない。本の中の世界を生きない限りは。
そう、物語に登場するおやつやごはんである。
絵本と童話:あこがれの食べもの
絵本には、おいしい食べものがよく登場する。
りんご、チョコレートケーキ、チーズ、ソーセージ……何でも食べてぐんぐん成長していく『はらぺこあおむし』(偕成社)、虎が溶けてできたバターでホットケーキを焼く『ちびくろ・さんぼ』(瑞雲舎)、森で巨大なカステラを作って動物たちと楽しく分け合う『ぐりとぐら』(福音館書店)。
どの作品からも、食べることや作ることの純粋な喜びや、食べもののおいしさがダイレクトに伝わってきて、読み終えるとお腹がぐうと鳴る。
このよで いちばん すきなのは おりょうりすること たべること ぐり ぐら ぐり ぐら
――『ぐりとぐら』(作:中川 李枝子/絵:大村 百合子/福音館書店)
なんて楽しいフレーズだろう。改めて音読してみると、なぜか泣きそうになってしまう。
思い返せば、私が生まれて初めてあこがれた食べものも、絵本の中にあった。グリム童話『ヘンゼルとグレーテル』に登場するお菓子の家だ。
窓はお砂糖、壁はパン。屋根もお菓子でふいてあり、お腹をすかせた幼い兄妹は無我夢中で食べる。子どもだった私は、ぴかぴかのお菓子の家を想像し、本当にそんな家があったらどんなにいいだろう、と夢見心地で読み進めた。
子どもの夢を具現化したこの家は、魔女が子どもたちをおびき寄せるために作った罠であり、童話のストーリーも客観的に見ればなかなか残酷なのだが、その残酷さこそが、甘い甘いお菓子の家の存在をよりいっそう際立たせていると思う。
絵本を読む私は、二人と一緒に森の中をさまよい、お腹をすかせ、お菓子の家にときめき、むさぼるように食べ、恐ろしい魔女に怯えた。一喜一憂しながらメルヘンな世界に引き込まれ、お菓子の家が本当にあるかのように思えてくるのだった。
『ハリーポッター』シリーズ:未知の食べもの
小学生の頃に夜通し読み耽った『ハリーポッター』シリーズ(静山社)も、魅惑的な食べものの宝庫だ。
人間界ではありえない珍味が紛れたバーティ・ボッツの百味ビーンズ、袋を開いた途端に汽車の窓から逃げてしまう蛙チョコレート。ページをめくりながら奇想天外な食べものに出会う過程は、冒険そのもの。
どんな味がするんだろう?どうやって食べるんだろう?
魔法界に初めてやってきた「普通の男の子」であるハリーと同じ目線で驚き、戸惑い、心を踊らせた。
さらに、ハリーポッターシリーズは、日本では馴染みのない西洋の食べものが次から次へと登場するのがまた良い。
ミートパイ、七面鳥のロースト、バタービール、シャーベット・レモンキャンディー、糖蜜パイ、糖蜜ヌガー、ジャム・ドーナツ、砂糖漬けパイナップル、チョコレートプディング……。
ずるくないですか、この字面。
魔法学校ホグワーツの始業式やハロウィン、クリスマスのごちそうは、きらびやかな食べもので埋め尽くされ、ハリーたちも私も目がハートになってしまう。字面がすでにおいしいので、食べたことのないものばかりなのに、よだれが出てくるのだ。
食は、物語の世界観を作り出す。海外ファンタジーに魅了されていた私の、魔法界や西洋へのあこがれは、未知の食べものの数々にも支えられていたのだろう。
『キッチン』:絶望の淵から救ってくれる食べもの
思春期以降に読んだ物語の中で、もっともおいしそうだと思った食べものは、吉本ばななさんのロングセラー『キッチン』(新潮社)に登場するラーメンと、『満月ーキッチン2』に登場するカツ丼だ。
祖母を失い天涯孤独になった主人公のみかげにとって、一番よく眠れる場所は冷蔵庫の脇。「いつか死ぬ時がきたら、台所で息絶えたい」と思うほど、キッチンが好きだ。
そんなみかげは「赤の他人」である雄一の家で居候を始めるのだが、実家を正式に引き払った後、夜中に起こったとある奇跡をきっかけとして、雄一と共にキッチンに立つことになる。この場面がなんとも愉快で温かい。
この時みかげが作ったラーメンの味は、作中では描写されない。でも、読み手にはわかってしまう。心の深いところで共鳴できた相手と一緒に食べる夜食が、おいしくないわけがない、と。
続編の『満月ーキッチン2』では、今度は雄一に危機が訪れるが、またもや夜中に、食べものによって絶望の淵から救い上げられる。
「どうして君とものを食うと、こんなにおいしいのかな。」
「こんなカツ丼は生涯もう食うことはないだろう。……大変、おいしかった。」
孤独に飲み込まれそうな夜、雄一のもとにひょいと差し出されたカツ丼は、日本中を探し歩いても、お金をいくら積んでも出会えない、唯一無二の味だ。陳腐な表現かもしれないが、愛だ、と私は思った。
雄一がこの日この場所でこのカツ丼に出会えてよかった。
私も含め、読者の多くが、心の底から安堵したのではないだろうか。
『つめたいよるに』:その人たるゆえんになる食べもの
江國香織さんの小説には、食の描写がよく登場する。短編集『つめたいよるに』(新潮社)では、主人公や大切な人の象徴としての食べものがいくつも登場し、「おいしそう」というよりも、切ない、尊い、愛おしい、という気持ちで胸がはちきれそうになる。
『デューク』では、死んでしまった犬のデュークに「たまご料理と、アイスクリーム、と梨が大好物」という特徴があり、物語の後半でその設定が生きてくる。
『スイート・ラバーズ』では、入院中のおじいちゃんが氷すいを見て愛する妻を思い出したり、食い道楽だったのに流動食しか食べられなくなったり、亡くなる直前に「ああ、いちじくが食いたいなぁ」と言ったりする。
『晴れた空の下で』では、「食べることと生きることの、区別がようつかんようになったのだ。」という文句が印象的だ。玉子焼きと手毬麩のおつゆが、おばあさんのいる幸せな過去へとおじいさんを連れ出し、現実と幻想が交錯する。
私が本当に好きなものはなんだろう。死ぬ間際に何を誰と食べたいだろう。
食べることと生きることの区別って、なんだろう。
そんな問いについてぐるぐると考えるのも、食べる読書のおもしろさなのだろう。