初めての人間ドックと、初めての吉祥寺ゴディバの記憶
先日、初めての人間ドックへ行った。
きれいなオフィスビルにある病院で、一人一台タブレットを渡されて、タブレットの指示に従って、最初の血液検査のための部屋に進む。私は昔から血液検査が苦手だ。あらゆる注射が苦手だ。タブレットに言われるがまま、システマチックな流れで検査室に入るのも、ひたすらに緊張して逃げたい気持ちでいっぱいだった。
検査室で迎えてくれたのは母親くらいの年代の看護師さんだった。…と、その時は思ったのだが、考えてみれば私の母は47歳で亡くなったので、私の「母親くらいの年代」というのはそこで止まっている。つまり、今の自分とそれほど年齢が変わらない人を「母親くらいの年代」として思い浮かべている可能性がある。そんなあほなである。でもとにかく、緊張で固まったときというのは、目の前の人を自分の母親に重ねるのかもしれない。
どちらにしても今思えばあの看護師さんは、間違いなく私の母親の年代(生きていれば60代)よりは確実に私の年齢に近かったはずだ。その看護師さんは、カルテを見ながら私に言った。
「これまでに大きな病気は…卵巣嚢腫(のうしゅ)だけですね。これはいつ頃ですか?」
「19歳のときです。」
「そうですか、救急車で運ばれちゃった感じですか?」
「はいそうです、そうです、救急車で運ばれちゃった感じです。」
「そっか、それは大変でしたね」
と、そう言われた瞬間、なんと私は急に涙ぐんでしまった。優しい看護師さんにも気づかれない程度だったけれど、声が震えた。
19歳のときに救急車に乗ったときのことなんて、しょっちゅう思い出すわけではない。というかほとんど忘れて毎日過ごしている。でも急にその「19歳のときに救急車で運ばれた」という記憶が、カルテを見ただけで全てを悟ったような看護師さんの言葉で、リアルに蘇ったのだ。
◇
ただこれは、19歳の、そのときの自分の感情をありありと思い出したから…では、なかったと思う。
私がこの時リアルに感じたのは、「19歳の私」の感情ではなくて、「(当時)43歳の母」の感情だった。もう今の私の年齢に近かった母の、その感情がやたらリアルに感じられたのだ。
友達に頼んで引っ張り出してきた20年前の学生時代の私(左奥)です。
母は最初、私が東京の大学を受験することに反対していた。「一人でやっていけるとは思えない」と言っていた。思春期の私は「いやいやこんな田舎より東京の方がなんでもあるしやっていけるわ!」と、思っていたけれど、振り返ると、当時家事は全部専業主婦だった母親に任せっきりだったし、料理なんてほとんどしたことがなかった。今の自分が当時の自分に言えることはまあ、「一人でやっていけるとは思えない」である。
そんな娘が反対を押し切って出てきた東京で突然救急車で運ばれたと知らされた母は、「ほらいわんこっちゃない!」という気持ち以上にきっと、後悔みたいなものや、罪悪感みたいなものにおそわれたんじゃないかと思う。それは今、自分が母親になったからこそ、わかることだ。
◇
それでも当時は、母に対して「ああ申し訳ないな」「心配かけちゃったな」といった罪悪感を、あまり抱いていなかった。それはもちろん、19歳という若さゆえの身勝手さもあったと思うけれど、たぶん、それだけではない。
というのも、その時の母の姿で記憶に残ってるのは「ものすごく娘を心配している姿」ではないのだ。むしろなんと、「久々の東京でテンションが上っている姿」なのである。
手術が無事に終わり、入院中の私に母は言った。
「まいちゃんごめん、吉祥寺ってところ行ってきていい!?」と。
母は手芸が趣味で、自分で作ったものをネットで販売したりもしていた。(なんと、20年以上前に、である。なかなか先進的な母だった。)その腕前は娘の私から見てもなかなかのものだったと思うのだけれど、そんな母にとって吉祥寺というのは当時「ハンドメイドの聖地」みたいなものだったらしい。雑誌でしか見たことのないお店がひしめき合っていたそうだ。
やけに楽しそうな母を見て、私は「どうぞどうぞ行ってらっしゃい!!」と言った。私は私で、手術して痛みが飛んでしまえば、大学は堂々と休めるわ、看護師さんたちはみんな親切だわ、同じ病室のおばちゃんたちも明るくて優しいわで、入院生活は驚くほど快適で気楽なものだった。だから、母にずっと付き添ってもらう必要も全くなかったのだ。
かくして私は病室で毎日好きな本を読み、友達が持ってきてくれたスカパラのCDを聴き、別の友達が持ってきてくれたおいしいスイーツを食べ、お姫様のような快適極まりない生活を送り、母は母で毎日のようにあちこちの手芸屋さんにひょいひょい出かけていくという一週間を過ごした。
おかげで母はすっかりと、東京中の手芸屋さんや、キッチン用品のお店に詳しくなり、退院した私を我が物顔で吉祥寺に連れて行ってくれた。
アンティークのキッチングッズを買ってもらい、初めてゴディバのお店に連れていってもらった。「一粒300円もするねんで!」と母は言い、二人で真剣に、一粒ずつチョコを選んで一緒に食べた。自分で好きなだけゴディバを買えるようになってからも、この日のゴディバがやけにおいしかったという記憶が残っている。
◇
あとから聞くと、深夜に私が病院へ運ばれたことを聞いた母は、一睡も寝られないまま、始発の新幹線に乗って東京へ来たらしい。「いつもは窓から見るのを楽しみにしている富士山も、この日はいつ通り過ぎたかもわからなかった」と、母は日記に書いていた。「でも元気になって療養のために京都に帰る娘と帰りの新幹線で見た富士山は、今まで見た中で一番きれいでした」と。
当たり前だけれど、母は私を心配していた。だけどそれを、私にはほとんど見せなかったのだ。
人間ドックの看護師さんの言葉で、当時のことを思い出した。その時の母の感情が、痛みが、今になってわかるようになった。
「母さんは強い」と、父は言った。強かったのか、それとも本当に東京が楽しかったのか、そのどちらなのかは今となってはわからないけれど。(どちらもある気がする。)
ただ、そもそも、子どものことなんて、心配なことだらけだ。顔に出しても出さなくても、そういうものだ。うちの子どもたちも思春期にさしかかり、小さかった頃とはまた違う子育ての悩みが次から次へと出てくる。全然勉強しないとか隠れてゲームばっかりしてたとかしょーもない嘘をつくとか、まあいろんなことがある。その都度、この子は本当に大丈夫かと心配になる。
でももしかしたら「心配しているよ」と伝えるよりも、一緒に何かを楽しんだり、おいしいものを食べたり、時には自分の好きなことを楽しむことのほうが、あとあと大切なものを残していけるのかもしれない、とそんな風にも思う。
もし、あの時母に「心配したよ」とか「もう心配かけないで」と言われたり、毎日病室で母が泣いていたり、ましてや「ごめん」なんて謝られたりしていたら、その方がずっと辛かっただろうと思う。そして今でもつらい記憶として残っていたと思うから。
◇
これは私が娘と二人で食べたゴディバ
だけど今私の中に残っているのは、あの時の母との柔らかな記憶だ。母と二人きりで食べた、ゴディバの味だ。
私はそういう記憶を、子どもたちにも残していけたらいいなと思う。痛みの記憶さえ、ゴディバのチョコや、楽しそうに憧れの吉祥寺に出かけていく母の後ろ姿や、そういったものに置き換わっていくといいなと思う。思春期まっただ中の子どもたちを前に、これはなかなか難しいけれど(いやはや本当に難しい)、なんなら時には一人でゴディバのごほうびを自分にあげながら、できるだけ楽しい記憶にしていけたらいいなと思う。
自分のことを楽しむ母の後ろ姿って、こんなふうに娘を救ってくれたりするのだなと、41歳になって初めて気付いた。なので私はこれからも好きなこと楽しむ姿を見せられる母でいよう…と、そんなことを思うのでした。