誰かが悲しいときに。「ごはん食べた?」に込める思い
韓国ドラマの「ごはん食べた?」
韓国ドラマを観ていると、よく「ごはん食べた?」というセリフが出てきます。
私はこれを最初、「まだ食べてないなら一緒に食べない?」というお誘いの言葉だと思っていました。ちょっと気になっている相手を食事に誘う、とか。ところがドラマをよく観ていると、どうやらそればかりではなさそうなのです。だいたい「うん、食べたよ」などと答えて、そのまま会話が流れていきます。別にそのあと二人でごはんに行く…という流ればかりではないのです。これはお誘いではないのか?時候のあいさつとかなのか?と、私はしばし混乱していました。
最近なんとなくわかってきたのですが、韓国の方は食事というものをすごく大切にします。特に、食事をしながらのコミュニケーションを大切にしています。だから、おそらく「ごはん食べた?」は「最近どう?」「元気にしてる?」というくらいの、相手の近況や無事を尋ねるあいさつのようなものなのかな、と想像しています。
でもこの言葉、考えてみればとってもいい「あいさつ」だなあと思うのです。
先日、私の大切な友人の大切な猫ちゃんが天国へ行きました。大切な人が大きな悲しみに暮れる時、つい自分には何もできない気がしてしまいます。大切な人の痛みは自分の痛みみたいに伝わってくるのに、それでも彼女の抱える痛みはこの何百倍も何万倍も強いのだと思うと、むやみなお悔やみの言葉は空回りする気がしてきます。
その時ふと、この「ごはん食べた?」の言葉を思い出しました。「大丈夫?」「少しは元気になった?」「落ち込んでない?」本当はストレートにそう聞きたいけれど、大丈夫でも元気でもないことがわかっている時、その質問は負担になるかもしれない。でもこの「ごはん食べた?」は、答えがシンプルです。「食べたよ」「まだだよ」。それは答える方にあまり負担をかけない質問かもしれない。
傷を癒す「日常」の力
私が大学生で一人暮らしを始めたばかりの頃、人生で一番くらいの失恋をして塞ぎ込んでいる時に、地元の京都にいる友達が「まいちゃん、ちゃんと朝起きて、ごはん食べて、夜はベッドで寝てや」とメールを送ってくれました。朝は起きたくなかったしごはんも食べたくなかったし夜も寝たくなかったけれど、私は友達が言ってくれた通り、なんとか普通の、最低限の生活だけは送るようにがんばりました。
毎日、朝起きて、ごはんを食べて、夜はベッドで寝る。それを繰り返すうちに、確かに少しずつ少しずつ、痛みが和らいでいくのに気づきました。「しんどいこと」を考える時間が、少しずつ少しずつ、減っていったのです。日常を取り戻していくような、そんな感覚がありました。
「日常」には、傷を癒す力があるのだなと、その時私は実感しました。
「ごはん食べた?」と聞くとき、そこには「少しでもいいから、ごはんはちゃんと食べてね」という思いがこもっています。「まだ」と返ってきたら、「このレシピおいしかったよ」「コンビニの新しいおにぎり食べてみた?」と返すこともできます。そこには、「気にかけているよ」「いつでも思っているよ」という気持ちが、こもっています。どうか普通の毎日が、穏やかに笑える日々が、そんな日常がまた戻ってきますように、と祈りながら。
「日常」を取り戻すために
母が亡くなった時、私自身が日常を取り戻すためにいろんな人たちに助けられたことを、改めて思い出しました。
近所に住む若いお母さんは、おにぎりを作って家に持ってきてくれました。そのお母さんは、昔まだ小さかったお子さんを事故で亡くされていて、その時、私の母が「何も食べられへんと思うけど、ちょっとでも食べて」とサンドイッチ作って持ってきてくれたのだと教えてくれました。
「周りに仲良い友達とかもそんなにいなくて、本当に何も食べたくなかったけど、まいちゃんのお母さんのサンドイッチがほんとにうれしくて。だからまいちゃんもよかったらおにぎり食べて。つまみやすいものがあの時うれしかったから」と、そのお母さんは言ってくれました。
同期の友人たちは、お葬式に弔電を送ってくれました。そこには「いつでもまいちゃんを思っています。東京でも、大阪でも、名古屋でも、福岡でも。」と、弔電の定型文とは全く違うメッセージが書かれていました。
みんな入社1年目で、まだ今よりずっと若くて、弔電の出し方だってろくに知らなかったはずなのに。あの日「長女だからしっかりしなきゃ」と気を張っていた気持ちがふっとゆるんだことを思い出します。
おにぎりも、弔電も、あの時自分の日常を取り戻すための力になっていったのだと思います。
「気にかけているよ」「思っているよ」の気持ち
しんどいとき、悲しいとき、心に響くのは、「気にかけているよ」「思っているよ」という、そういう気持ちだと思います。それだけで痛みがすべてなくなるわけではもちろんないけれど、そういう気持ちや言葉に触れることで、少しずつ少しずつ、日常を取り戻していくのだと思います。
そういえば、母のお葬式から1ヶ月ほどたった頃、普段めちゃくちゃ厳しい会社の先輩が「ムッシー、もうすぐ1ヶ月だね」と声をかけてくれました。思いがけずかけられた言葉がうれしくて、ふと昔母が言っていたことを思い出しました。「お母さんのお兄ちゃんが亡くなった時『もうすぐ一周忌だね』と声をかけてくれた友達がいて、それがとてもうれしかった。亡くなったばかりの頃はみんなお兄ちゃんのことを覚えていて、気にかけてくれたけど、自分含めてだんだん忘れていってしまう気がして。でも時間がたっても気にかけてもらえたことが、なんだかうれしくて救われた」と。
「ごはん食べた?」は、そういう「気にかけているよ」「思っているよ」という気持ちのこもった言葉だなと思います。そして日常を大切にしてねというメッセージにもなります。ごはんというのは、日常の、大切な瞬間だから。
日々いろんなことはあるけれど、悩むこともしんどいこともあるけれど、ヤクルトは今年も激しい(?)最下位争いの末5位だったけど、誰かのその一言で、ちょっと心が軽くなる。ごはんを食べる大切さを思い出すことができる。「ごはん食べた?」、いい言葉だなあと思います。
大好きな友人が、そして今まさに心に大小さまざまな痛みを抱える人が、簡単なものでもいいからあたたかいごはんを毎日食べて、少しずつ元気になっていけますように。祈っています。