「非リア充」だって「リア充」になりたい!!憧れへの悲しきチャレンジ【後編】
こんにちは!ケシミニャンです!
今回は、前回からの続きです!
よろしくお願いします!
「リア充」にはなれない人種
前回のバーベキュー大会で自分は決してリア充にはなれない人種だと、確信したケシミニャン。
しかし、みんなと打ち解けられないこと、独りぼっちなこと。
ケシミニャンは、それほど傷つきませんでした。
これまで学校とかで、ずっと仲間外れにされてきたから…。
組織や集団から仲間外れにされることには、慣れっこなのです。
折角、新卒で入社できた会社だけど…
「ああ、私、ここでもダメなんだ」
という、気持ちしかありませんでした。
思春期に、友人関係や学校に自分の居場所を築けなかったケシミニャン。
そんな自分だから、当然、社会に自分の居場所があるとは思わなかったのです。
社会人になっても「自分がみんなからどう見られる」とか、「みんなの仲間に入れない」とか、悩み続けるケシミニャン…。
社会人1年目、毎日の仕事だって思うようにできない。
普段の人間関係だって、うまく築けていない…。
それに、バーベキューでだってみんなとうまくいかなかった。
誰に何を言われた訳じゃないけれど…
情けなくて、どうしたらいいか分からない気持ちでいっぱいでした。
「興味を持つ」
ケシミニャンは、新卒でなんとか奇跡的に就職できました。
しかし、「社会」に出てある「壁」にぶち当たっていました。
それは当時の職場の上司が、よくケシミニャンを叱るときに使っていた言葉です。
「もっと相手のことを考えて!」
「全体のことを考えて!」
何故、そんな風に叱られていたのかというと…
上司が忙しそうなのに、矢継ぎ早に小学生レベル(ちょっと考えれば分かるようなこと)の質問をしまくったり、
クライエント企業に、アホな、仕事のお願いの仕方とかをしまくっていたから。
新卒の社会人1年目とはいえ、周りが見えていない、ちょっとやべー奴でした。
相手のこと…。
全体のこと…。
これまで他人と関わることを避け、年齢に伴ったさまざまな社会経験を放棄してしまったケシミニャン。
平たく言えば、「協調性」が皆無だったケシミニャン。
その上司は根気よく、ケシミニャンの立場になって色々なことを教えてくれました。
仕事の仕方に挨拶、報連相やコミュニケーションの取り方…。
それでも、相手のこととか、よく分かりません。
その疑問を、ケシミニャンは上司に素直にぶつけてみました。
ケシミ「相手の気持ちとか、立場とか言われても…。他人のことなんて、分からないと思うんですけどぉ」
かっ、可愛げのねぇやつだな…。
今のケシミニャンに、こんな部下がいたら即グーパンです。
上司「そうだよね。分からないよね。でもね、ケシミさん。相手に興味を持つことが、まずは大事。人にも仕事にも、ちょっとでいいから興味を持ってごらん」
興味…?
そのときは、あまりピンときませんでした。
しかし、今にして思えば、これはなかなかケシミニャンの本質的な問題を突いていたのです。
他人に無関心?
そうなのです。
結局、ケシミニャンという人間は、自分が他人からどう見られているかとか、自分がどう感じるかとか、
自分に対しては、と~~~っても「敏感」です。
しかし、それに比べて他人に対しては鈍感で、無関心なところがありました。
恐らく、自分が傷つくのが怖いからとか。
自分の心を守りたいとか。
人と関わるのが怖い、という心が強くなって、自分のことにしか興味を持てなくなってしまったのかも知れません。
心の中に、他人に無関心な、自己中心的な自分がいる―。
「興味を持てない」のではなく、自分から「興味を持たない」。
「人」に対しても「仕事」に対しても、自分から「興味を持つ」ということをしない。
その姿勢が、ケシミニャンのマズイところかもしれないと。
そんな風に、感じたのです。
真の「リア充」とは
「リア充」として、仕事も人間関係もうまくいっている人たち。
ケシミニャンはもしかしたら、「リア充」に興味を持っているようで、実は彼らの外側の部分にしか目を向けていなかったのかもしれません。
自分なりに色々と考えてみた結果、ケシミニャンから見て「リア充」と呼ばれる人たちには、
下記のような共通点があるように思いました。
●相手に興味を持って、自分から歩み寄ろうとする姿勢
●みんなとコミュニケーションや、時間を一緒に過ごす姿勢
●お互いの感情を、理解し合おうとする姿勢
「リア充」の外側ばかり真似ていたけれど、本当に目を向けるべきだったのは、この内面の部分だったのではないでしょうか。
SNSでは下ネタ大魔王のケシミニャンらしからぬ言葉を並べますが…。
結論として「リア充」とは、あらゆることを「人と分かち合うこと」ができる人、のことなんじゃないでしょうか。
人に対して興味と、思いやりがある。
だから、相手やみんなが喜ぶことを考えられる。
相手を喜ばせることができるから、自分も相手から大切にされる―。
人と協力し合い、人を大切にできる人のところに、
幸せや喜び、情報やモノが、集まってくるのではないでしょうか。
ケシミニャンみたく、損得とか、自分のことばっかり考えている人。
いつも人から与えてもらうことばかり考えて、自分から何もしない人。
そんな人の人生が充実するでしょうか?
自分が相手に対して、どれだけ心を砕けたか―。
それが、本当に大切なことだったように思うのです。
前回のバーベキューだって…。
ケシミニャンが、自分のことばかりじゃなくて「みんな」の視点に立って、物事を見ることができていたら。
自分が手伝うべきこと、すべきことが分かったはずなのです。
みんなとの会話だって「興味を持つ」、という姿勢を持てば…。
もう少し、輪の中に入ることができたはず。
自分からまず、相手を理解しようと歩み寄る。
そうしなければ、仲間として歓迎されるはずがないのです。
ケシミニャンが、もっと全体のことを考えてちゃんと貢献していれば…
ちゃんとバーベキューの肉が回ってきたはずなのです…。
あれから今
今でも心の中には、やっぱりキラキラの「リア充」に憧れる自分がいます。
でも、それは昔のようにファッション的に憧れているのではなく…
人と上手にコミュニケーションがとれたり、一緒に力を合わせて、色々なことを楽しむことができる、そのマインド的な部分に憧れているのです。
何故ならケシミニャンは、人間性がちょっぴり、みみっちくて…。
ちょっとでも気を抜くと、すぐに自分が得をしようとか、一人でずっと誰とも喋らず、お酒飲んでSNSいじってる方が楽しいとか。
自分がラクな方に流れようとしてしまうからです。
それはそれで、自分が幸せだと思うなら、いいと思う部分もなくはないのですが…。
しかし、他人ともっとうまく関わることができたり、力を合わせることができれば、今よりももっと、幸せな人生になるんじゃないかと思います。
そして、こんなケシミニャンでもそんな気持ちを持てば、「リア充」に近づけるのかもしれません。
そう考えると、長年染みついてしまったケシミニャンの「ぼっち根性」は、少し考えものです。
何故ならその「ぼっち根性」が、本当の意味で自分を幸せにする考え方なのか、疑問に思うからです。
このまま自分がラクな生き方を選んでいたら、お酒の空き缶が散乱した部屋で、マジで孤独死してそうだし…。
とりあえず、無理のない範囲で「リア充」は目指していきたいと思います…。