かぞくとわたし 第九話「あなた、変わってしまったわね」
ご家庭で起こる微笑ましい風景を描く、サカイさんの人気エッセイ。
今回は新婚旅行で訪れた海外での思い出を書いてもらいました。
とある出来事をきっかけにサカイさんの価値観が一変し、奥さんに「変わってしまったわね」と冷たく言われてしまったそうです。
飛行機が離陸し2時間ほどして、機内食が配られた。ベトナムへ向かう飛行機の機内食にはベトナム料理が出る。そんなことも知らなかった。
僕ら夫婦は、新婚旅行の行き先としてベトナムを選んだ。旅行代理店のお姉さんが我々の顔を見るなり、なぜかベトナムをゴリ推ししてきたからだ。
「せっかくなら、ベトナムに着いてから本場の料理を食べたいんだけどな」不満を抱きながら機内食のサラダを口に運ぶと……この不快な味……出た。パクチーだ。
パクチーが苦手な僕にとって、ドレッシングすらかかっていないパクチーサラダはもはや暴力だ。同じくパクチーが苦手な隣の奥さんの顔を覗き込むと、やはりサラダを険しい表情で睨んでいる。「大丈夫、大丈夫だよ」と僕は彼女の肩をしっかりと抱き、共に目の前の憎きパクチーを睨んだ。
しかし、残念ながら帰りの飛行機では状況が一変していた。奥さんの分のパクチーをもらうほどに、僕はパクチーが大好きになってしまっていたのだ。
現地ホテルの夕食に出された山盛りのパクチーをおそるおそる口に入れた瞬間から、僕のパクチー観は180度好転した。なんて癖になる味なんだ。これまで不快に感じていたパクチー臭の峠を一度越えたら、そこには楽園が広がっていた。
帰国後も僕は、スーパーでパクチーを見つければ買い物カゴに投入し、エスニック料理店に行けば必ずパクチー料理を注文するようになった。むしゃむしゃと嬉しそうにパクチーを頬張る僕に、奥さんは「あなた、すっかり変わってしまったわね」と冷たい視線を送る。
「ほら、ちょっと食べてみなよ。一度乗り越えれば好きになるから」
僕は得意げに奥さんにパクチーを薦め、「別に乗り越えたくない」と断られるたびに「こんなに美味しいのに〜もったいない」とこれまた得意げにパクチーを頬張る。「パクチー好きの人ってどうしてそんなにムキになってパクチーを食べるの?」と彼女は言う。
「別にムキになってないよ。美味しいから食べてるだけ」
「そう?私はチーズが好きだけれど、そんなにむしゃむしゃチーズばかり食べない」
「パクチーはチーズとはちょっと違うんだよ。中毒性というか……」
「わからない」
たしかに奥さんの言うとおり、パクチーを好きになってからというもの、僕は少しパクチーに熱狂しすぎているのかもしれない。乾燥パクチーにパクチーチューブ、パクチーポテトチップスにパクチードレッシングも常備している。ムキになっていると言われるのもたしかに頷ける話ではある。
しかし、僕は生まれてこの方30年近くものあいだ、パクチーが食べられなかった男なのだ。「こんなに美味しいのに〜」とパクチー愛好家たちに自慢げに言われ続けてきた人生なのだ。少しくらい浮かれても仕方がないだろう。振り向いてもくれなかった片思いの女の子がある日突然微笑んでくれたら、浮足立たずになんかいられないじゃないか。
こうして、僕のパクチーライフは少しだけ肩身の狭い思いをしつつ楽しむこととなった。それでも僕は懲りずに、スーパーでパクチーを見つけると小躍りして買い物カゴに放り込む。もちろん、奥さんの好きなチーズも一緒に。
つづく