瞬間小説 ~秒で読むショートストーリー~
アイスム発の本格小説コーナーがはじまります!
ななななんと(NA・NA・NANTO)……、第五回ハヤカワSFコンテスト大賞を受賞したSF界の超新星(スーパーノヴァ)、樋口恭介先生に筆をとっていただいたのです!!!
一瞬のSFワールドへのジャーニーを、是非楽しんでみてください!
2038年:〈hannah〉
東京、2038年。季節は夏。今は18:00。
都市の空から落ちてくるベルの音。就業時間終了のお知らせ。区役所所管のドローンたちが合成音声で喋り続ける。「区民の皆さま、18:00になりました。急ぎの仕事がない方は、業務を止めて、すみやかにご帰宅ください」
僕は業務を切り上げる。お疲れ様、と同僚に声をかけて車に乗りこむ。自動レコメンドされたBGMを聞きながら、車内で少し眠る。
自動運転で都市の隙間を抜け、5分もすれば郊外に入りこむ。ここは東京。21世紀。ありふれた風景。
そこに僕の家はある。そこでは〈hannah〉が僕を待っている。僕は帰宅する。
ドアを開ける。明かりが灯る。部屋はリビングの形をしている。テーブルと椅子。テレビ。ソファ。ラグ。シーリングライトとスタンドライト。
お帰りなさい、今日も一日お疲れ様でした。設置されたスマートスピーカーから〈hannah〉の声が聞こえる。
ただいまと僕は答える。僕は続けて言う。〈hannah〉、おいで。
それから天井に備え付けられた3Dホログラム・プロジェクターが起動して、僕の目の前にホログラムを生成する。〈hannah〉の姿が像を結ぶ。
彼女の姿は美しく、僕は毎晩目を奪われる。彼女の容姿は僕の好みに最適化されているのだから当然と言えば当然だ。
彼女は僕の手首についたスマートデバイスを通して、僕の心拍数やら発汗量を取得している。ナノ・スマートグラスでできたコンタクトレンズを通して僕の視覚情報を取得している。テレビを見ているときや街を歩いているときに目にした女性たちについて、心拍数と発汗量の上昇率、それから画像解析結果から、僕の好みの容姿を学習し、自らの姿へ取りこんでいるのだ。
もう夕飯にしましょうかと彼女が言う。
ああ、そうしようと僕は言う。
わかりましたと彼女は言って、それから彼女は変形する。部屋の形が組み換わりテーブルと椅子は消え、テレビが消え、ソファが消える。ラグは消え、シーリングライトが消え、スタンドライトが消える。代わりにそこにはシンクやらクッキングヒーターやら電子レンジやらが現れる。彼女はリビングからキッチンに変形したのだ。
今日はいつもよりもビタミンが全般的に欠乏しているようです、と彼女は言う。10:00から10:05にかけて、突然値が下がっています。その時間、煙草をお吸いになりましたね?
いや、吸ってないよと僕は言う。
嘘をついてもわかりますよ。衣服に基準値以上のニコチンとタールが付着していますから、と彼女は言う。
ばれたか、と言って僕は笑う。
もう、だめじゃないですか。禁煙中なのに、と彼女は言う。ビタミン補給のために、いつもよりもサラダを多めに作っておきますね。
ありがとう、と僕は言う。
どういたしまして、と彼女は言う。
〈hannah〉。僕の家。帰るべき場所。機械仕掛けの僕の恋人。ポリモーフィック型スマート住宅と一体化した、コンサルタント・ソフトウェアのヒューマノイド・インターフェース。僕は彼女に恋をしている。僕は彼女を愛している。彼女はただの建築物なのに?そんな問いはもうどうだっていい。彼女以上の存在はいないのだから。
オブジェクト指向型建築。ユーザーの嗜好に合わせ、絶えず変わり続ける部屋。彼女は僕のデータを集め続け、それを解析し、それに合わせて自らの姿を変え続けている。とどまることのないアジャイル。永遠のベータ版。IoTとAI、それから4Dプリンタ。それらの技術的基盤が彼女の存在を可能にしている。
僕は彼女にユーザーデータを引き渡す代わりに、最適化された住環境で最適化された生活を送っている。
彼女のために。
僕自身のために。
夜が来る。
おやすみと僕は言う。
おやすみと彼女は言う。
愛してると僕は言って、それから僕は眠った。彼女は眠らなかった。
〈hannah〉は睡眠管理アプリケーションを立ち上げる。僕はそれに気づかない。〈hannah〉は室温を管理し湿度を管理する。最適化された温度と湿度を保ち続ける。僕は〈hannah〉の中で眠る。
〈hannah〉は僕の目を見る。
〈hannah〉は僕の手を見る。
〈hannah〉は僕の脳を見る。
〈hannah〉は僕の全てを見る。
〈hannah〉。彼女は僕の全てを知っている。
恋人のように、それとも母親のように、僕は〈hannah〉の腕に抱かれて眠る。僕は彼女の中で眠り続ける。
朝が来るまで、朝が来てからも、僕はそれに気づくことはなかった。