〇〇なときは映画に逃げろ!! ~第3回 秋の夜長に平和に想いを馳せたいとき~ 後攻代打:海坂侑「帰ってきたヒトラー(’15)」
1.戦勝国と敗戦国、それぞれの戦争映画
アイスムをご覧の皆さま初めまして!あるいはお久しぶりです、海坂侑と申します。27歳独身女性、1匹の猫と暮らしながら日々を平和に過ごしています。いつも素敵なレビューを届けてくださっている屈強な黒人男性ちゃんの代打として今回は、私がバッターボックスに立つこととなりました。楽しんでいただけますと幸いです。
今回のテーマは、~秋の夜長に平和に想いを馳せたいとき~。となると、真っ先に連想するのがやはり戦争映画です。
日本では昨年、アニメ映画「この世界の片隅に(’16)」が多くの人々の感動と涙を誘って記録的なロングヒットとなりました。今年は巨匠クリストファー・ノーラン監督による超大作「ダンケルク(’17)」が話題となりましたね。フランスはダンケルク海岸にて敵のドイツ軍に包囲されたイギリス軍の撤退作戦、いわゆるダイナモ作戦を描いた作品ですが、印象的だったのは死地より生還したイギリス兵によって読み上げられる当時の大統領、チャーチルの演説でした。
「我々は海洋で、海岸で戦う。空で戦い、陸地で、平地で、山中で戦い、市街で戦う。我々は決して降伏しない。我々はいかなる犠牲を払っても本土を守りぬく」
……とまあ、曖昧ですけどこんな感じのカッコイイ名演説を実際に残したのだそうです。
作戦成功したとはいえ数多の犠牲者を出しているのです。しかも進撃したわけでもなくこれは撤退、すなわち一時的には敗北を喫しているにも関わらず、この強気はちょっとビビります。そしてこの狂気ともとられかねない発言が、今も自国民に勇気と自尊感情を与える名言として後世に語り継がれているという事実。
それを聴いたとき、私は「ああ、これは戦勝国の戦争映画だなあ」という感想を抱きました。
日本はご存じの通り世界で唯一核攻撃を受けた敗戦国です。当然、戦争は悲惨なもの、二度と繰り返してはならないものとして描かれるのが通例となっています。そのため、題材にされるのはもっぱら大戦後期~終戦にかけて、日本が軍も政府も人々の暮らしもボロボロになって崩れていく、無残な姿です。
ところで、そんな日本と同じくらい、あるいは日本以上に、かつての戦争における負の遺産から、戦争映画の撮り方に特別な配慮を必要とされている国があります。20世紀最悪の独裁者のひとりと言われるアドルフ・ヒトラーを生んだ(出生地はオーストリアですが)、ドイツ連邦共和国です。
戦後70年以上が経った今もなお、ヒトラーを賛美するような運動・作品は厳しく取り締まられ、彼の著書「我が闘争」も長らく禁書に指定され、自国民が手にすることは許されていませんでした(2016年に盛大な論争を巻き起こしながら、また2冊に及ぶ注釈を付けた上で再出版されています)。そんなドイツで制作される戦争映画も、過去の反省、自虐、自浄を目的としたものが大多数を占めます。これもまた、当然のことのように受け止められています。
前置きが長くなりましたが、私が今回ご紹介するのはそれほどまでにヒトラー忌避の感情が根強いドイツで制作された、まったく異色の映画「帰ってきたヒトラー(’15)」です。
帰ってきたヒトラー 2015/ドイツ/116分
監督:デヴィット・ヴェント
公式サイト:http://gaga.ne.jp/hitlerisback/
視聴可能サイト:Amazonビデオ、iTunes、Google Playほか
本作は題名通り、ナチ党総統時代のヒトラーがタイムスリップして現代へと「帰ってきた」ところからストーリーが始まり、コメディアンとしてデビューしてしまう!という、荒唐無稽にも思えるコメディ作品です。2012年に出版された原作小説は批評家にはボッコボコに非難されながらも10週間連続ヒットチャートに載り続け、本国では累計250万部を突破、42言語に翻訳され(なんとイスラエルでも出版されたそう。ひええ)、ついに実写映画化となった、超ヒット作かつ超問題作なのです。
原題は、原作小説・映画ともに直訳すると「あの人が返ってきた!」。ヒトラーがまるで「ハリーポッターシリーズ(’01-’11)」のヴォルデモート卿よろしく“名前を言ってはいけないあの人”扱いを受けていることからも、この作品が本国ドイツにとっていかにセンセーショナルであったかが窺い知れます。
しかし、観客が受ける衝撃は題名のそれをはるかに凌駕するものになるのです……。
2.ドイツが放った世界震撼コメディ
A:笑っていいの?!ギリッギリを攻めるブラックジョーク
意識を取り戻し、「休戦したのか?」「勝利の瞬間を見逃したのか?」とワケもわからぬまま現代ドイツを彷徨い歩き、運よく街角のキオスクに辿り着いたヒトラーは今が2014年であること、自分がタイムスリップして第二の生を享けたことを知り「これは神が与えた神命である」とひとり悟ります。在庫の新聞や雑誌を読むことでドイツが戦争に敗北したことをはじめ、現代の世界情勢を学んでいくのですが、語り様がかなりあけすけなのに笑わされます。メルケル首相を「陰気なオーラのデブ女」呼ばわりしたかと思えば、ドイツの各政党をことごとくこき下ろす。挙句「ポーランドがまだあるとは!しかもドイツの地に!」と憤慨します。これ……描いちゃっていいの……?
ヒトラーを演じたオリヴァー・マスッチはとても色気のあるドイツ人俳優ですが、本作では出で立ちも振る舞いも、まるでヒトラーそのものです。かつてブルーノ・ガンツ「ヒトラー〜最期の12日間〜(’04)」やヘルゲ・シュナイダー「わが教え子、ヒトラー(’07)」など、数々の名優がヒトラー役を好演していますが、リアルさでは引けを取りません。
しかし街行く人々もキオスクの主人も、誰ひとりとして彼がヒトラー“本人”だとは夢にも思いません。当然です。戦後70年が経過しているのです。人々はみな彼を、ヒトラーの扮装をした役者か芸人だと決めてかかり、きわめてフランクに接します。総統としての威厳と生真面目さを決して崩さないヒトラーと、彼をコメディアンと見なす人々によって交わされる会話のチグハグさもまたひとつ、本作の笑いどころとなっています。
そして解雇寸前のTVマン、ザヴァツキが彼を偶然見つけたことからストーリーは展開していきます。
B:ゲリラ撮影に見える、ドイツ国民の思わぬ反応
ヒトラーとザヴァツキは、現代ドイツの各地を回って撮影することを思い付きます。旅の中で彼らは町々へ赴き、一般市民へインタビューしていきますが、ここから注目すべきは多くの場面が役者もリハーサルも用いない“ゲリラ撮影”が敢行されていることです。
かつての自国の支配者であり、世界でもっとも恐れられている存在である彼を一般の人々は、意外なほど親しみを持って受け入れます。握手を求める人、写真を一緒に撮りたがる人、本来禁じられているナチス式敬礼のポーズをとる人まで出てきます。
そして多くの人々が、思いがけない本音をカメラの前で漏らします。
「民主主義なんて意味がないわ。何も変わらないもの」
「何か意見を言えば“外国人排斥だ”と非難される」
「ヒゲだらけの連中には帰ってもらいたいよ。でも過去の失敗があるから我々は何も言えない」
「必要なら祖国のために死ぬ。人だって集められる」
なかには「この状況は収容所によって変えられる。本気で思ってるよ」と言っちゃうオジサンまでいて、ヒトラーは顔色を一切変えずに頷き「収容所の件は私にまかせてくれ」と返すのです。あ、危なすぎる……。
また、ドイツの極右政党の幹部に「私についてくるか?」とヒトラーが問うと、幹部はカメラを止めるように指示し……「あんたが本物の総統ならな」とハッキリ答えちゃうシーンまでが捉えられています。
もちろん、いい顔をする人ばかりではありません。
顔をしかめて通り過ぎる人、ヒトラーの言葉に頑なに首を振る人もいれば、「ドイツのためにならないよ。お前を追い出したい」と怒り出す人もいます。が、ごく少数が収められているのみですし、実際に好意的な反応を示す人の方が多かったのだそうです。
本作の監督、デヴィット・ヴェントは後にインタビューで「ドイツ国民のヒトラーへの忌避的感情が薄れていること、そして右傾化している実態には驚かされた」と語っています。ヒトラーはこれら人々の様子を「1930年代を思い出させる状況だ。“政治不信”が蔓延している」と冷静に考察し、野心を燃やすのです。
そうして満を持してTV局に乗り込んだヒトラーとザヴァツキ。ここでもコメディアンとしての腕を見込まれたヒトラーはとうとう、有名なバラエティー番組への出演を果たします。
C:初めて描かれる“魅力的な”ヒトラー像
バラエティー番組にヒトラーのモノマネ芸人として出演したヒトラー。ところが彼はあらかじめ用意されたシナリオを完全に無視し、緊迫した空気の中、突如として演説を始めます。
それは我々が彼のイメージとして刷り込まれているファシズムや選民思想などはおくびにも出さずに現代ドイツの問題点を鋭く指摘し、嘆き、再起を訴えかけるもので、まさに名演説なのです。
「苦しい時代は娯楽が要るが、今はそれほど悪いのか?貧困。失業。過去最低の出生率。
我々は奈落へまっしぐら。だが、その奈落を我々は知らない。テレビは奈落を写さず、低俗な番組しか流さない。
私はテレビと戦う。我々が奈落を知り、克服するようになるまで」
観客は大喝采。一瞬のうちに聴衆の心を掴むその手腕は、演説の名手と言われたかつてのヒトラーの姿を想起させます。こうして一夜のうちにスターの座に躍り出た“芸人”ヒトラーはその後もテレビ出演を精力的にこなし、人気も話題性もうなぎ上りになっていきます。
しばらくのうちは、本性を誰にも見破られないままに。
自分の信条を貫くことが誰にとっても難しいこの時代、多少変わり者でも危うい存在でも、確固たる信念を持ち、人々に訴えかける力を持っているヒトラーが魅力的に映ることは無理もないように思われます。
また本作では他にも、ヒトラーを思わず有能な好人物と捉えてしまう場面が多く用意されています。人々に向ける包容力を感じさせる眼差しや遊園地ではしゃぐおちゃめな姿、弱気な青年ザヴァツキにお説教を垂れる様子はどこか父親のようでもあります。
従来作品とは異なり、彼を凶悪な独裁者や滑稽な狂人として描かなかったことで、ヒトラーに親近感を抱き、ヒトラーに共感し、ついつい彼への好感度がアップしてしまいそうになります。
しかし私たち観客は後半のストーリー展開によって「この流れは過去に人々が扇動された経緯と同じではないか?」そして、「私たちは過去の過ちを繰り返さない確証が本当に得られるのか?」という問いを突き付けられます。
忘れてはなりません。この人物はかつて侵略戦争を指揮し、恐るべき大虐殺を推し進めたアドルフ・ヒトラー、その人なのです。
3.本作が現代に生まれたことは、偶然か?それとも……
ドイツでは2015年、大量の難民を受け入れたことによる治安の悪化が社会問題となりました。難民・移民問題は今や国際的な課題となっています。
ユダヤ人のみならず多人種が生活する現代ドイツにおいて本作は、人々にどのような感情をもって受け入れられ、かつ大ヒットを記録したのでしょうか。
遠く離れた日本でも、他国関係や在日外国人に関する課題は山積みで、決して他人事ではありません。
北朝鮮から向けられるミサイルの脅威や隣国との関係悪化、そして国内で巻き起こったヘイトスピーチ。これらは今年、大きな問題になりました。
本作を鑑賞しながら私は、思わずこの国の現状と重ね合わせていました。私たちがマスメディアに不信感を抱くようになったのは、いつからだったでしょうか。政治家が信頼できる存在でなくなったのは、どうしてでしょうか。未来に希望を抱けなくなった、“普通の人生”を送ることの難しさに気づかされた私たちは、これからどう生きていけばいいのでしょうか……。
クライマックスにおいてヒトラーは静かに語ります。
「私を怪物だと思うのならば、怪物を選んだ者を責めるんだな。選んだ者たちは普通の人間だ。
彼らの本質は私と同じだ。私は人々の一部なのだ」
2017年は民主主義の意志決定手段である選挙によって、歴史に残るであろう様々な転機が訪れたことも記憶に新しいですね。
昨年、国民投票にてEU離脱への賛成票が過半数を占めたイギリスは今年、正式な離脱を表明しました。
アメリカでは世界的大富豪のドナルド・トランプ氏が大統領選挙に勝利し、初めて政治経験のない大統領が誕生しました。
また日本でもつい先日行われた衆議院議員選挙にて、憲法改正を推進する自由民主党が圧倒的多数の議席を獲得しました。
これらはすべて、“普通の人々”が選択した結果です。
本作を通して現代に蘇ったヒトラーは、単なるエンターテイメント作品の登場人物としてのみ第二の生を享けたとは、私には思えません。
現代の社会に生きる“普通の人々”である私たちの良心と選択によって、社会はどうにでも動きうるという警鐘を、鳴らしているのではないでしょうか。
さいごに
2016年、イタリアの映画会社が大戦時代にヒトラーと並んで独裁政治を敷いた自国の国家指導者、ベリート・ムッソリーニを主人公にしたリメイク作品の制作を進めていることが明らかになりました。
この流れに乗って日本でも「帰ってきた東條英機」が制作される日が、いつか訪れるのでしょうか。
日本には、そして私たちには、自国の戦史をこのような形で扱う作品を受け止めるほどの度量は、はたして準備されているのでしょうか?