【第十三話】夏のはじまり
ご家族との会話やshin5さんの思いやりがあたたかい、大好評のファミリーエッセイ。
雨の少ない今年の梅雨もいよいよ終盤。今回は奥さまとの交際がはじまった季節について、聞かせていただきました。
少し年上の当時の彼女(今の奥さま)に、敬語でアプローチするshin5さんの奮闘ぶりに注目です。
「どうしたの?今日は早かったのね」家に帰ると、驚いた妻にそう言われた。
僕はIT企業でシステムエンジニアをしている。お客様の業務に影響が出ない夜間にメンテナンスを行うこともあるし、予期せぬトラブルに巻き込まれて夜通し対応することだってある。
今日はたまたま仕事の山場を越えたタイミングで、打ち合わせのあと、そのまま家に帰ることにしたのだった。
「仕事がちょっと落ちついてきたからね。また来月から忙しくなるよ」
「そっかぁ。早く帰ってきてくれて良かった」
「そう言ってくれるとうれしいな。じゃあ、久しぶりに子どもたちとお風呂に入ってくる」
「あんまり大声で歌わないでね。ご近所に聞こえたら恥ずかしいから」
キッチンからは夕食のいい匂いがして、急にお腹がすいてきた。
子どもたちと自分の着替えをクローゼットから出し、ふと顔を上げて窓の外を見た。夕方の空がまだ明るい。一年で一番日が長い季節。妻と付き合いはじめたのもこの季節だ。
まだ駆け出しの若手社員だったころ、経理部門で働いていた彼女とは社内のチャットでよく密談をしていた。
「お疲れ様!!今日は遅くなるのかな?私、保育園のお迎えあるからお先に失礼するね」
「あ、僕もちょうど終わりそうなので、もうすぐ帰れそうです!」
「じゃあ、先に駅に向かって歩いていようかな」
「はい!すぐに追いつくと思います!またあとで」
彼女がオフィスを出た少しあと、パソコンの電源を落として、オフィスから駅まで歩いて5分の距離を思いっきり走った。
品川駅の港南口が見えてきたころ、彼女の後ろ姿を見つけた。
少しだけ追い越して、息を整えながら笑顔でふりかえる。
知り合ったばかりのころ、年上の彼女には敬語で話しかけていたっけ。
「歩くの早いっすね。今日は追いつけたー!」
「お疲れさま!いつもの電車に乗れるね」
「保育園のお迎え、間に合いますか?」
「うん。この時間に電車に乗れば余裕で間に合うよ」
そんな会話をしながら駅に着くと、アナウンスが聞こえてきた。電車の遅延の知らせだった。
「あれ?電車止まってますね」
「うん…。保育園のお迎え間に合わないかも」
「困りましたね。。。」
「お願いがあるんだけど、携帯借りてもいいかな。いま電池が切れちゃってて。実家に連絡しなきゃ…」
「もちろんです!」
彼女が僕の携帯電話を使って電話をしている姿は不思議な光景だった。彼女は実家と保育園に電話をして、たまたま実家にいた彼女の弟がお迎えに行くことになったようだ。
電話の途中。二人きりでこんなに顔を合わせて会話をしたのは、初めてのことだと気づいた。でも、不思議と緊張はしなかった。
「他の路線で行けるところまで一緒に行きましょう。池袋方面でしたよね」
「そんなの悪いよ!もう大丈夫だから。電話貸してくれてありがとう」
「僕、ちょうどこれから池袋で友達と飲む予定なんです。だからそこまでなら」
「本当?携帯の電池が切れたままだから、一緒にいてくれると助かるけど、迷惑にならないかな」
「大丈夫ですよ!じゃあ行きましょうか」
池袋で友達と飲む予定なんて本当はなかったのに、咄嗟に嘘をついてしまった。
帰宅ラッシュの品川駅をくぐり抜けて、大崎駅で埼京線に乗り換えた。
電車はいつものように満員だった。自分の身体を盾にして、華奢な彼女が押しつぶされないように少しだけ空間をつくった。彼女に触れることができないのが少しもどかしかった。
ゆっくりと進む電車の中で、彼女の携帯に息子のプリクラが貼ってあるのが見えた。混雑する電車の中で、子どもとの暮らしについて話を聞いてみた。
とても元気で人見知りをしないこと。
それでも甘えん坊で、ママが好きなこと。
カレーが大好きで、ナスとピーマンが苦手なこと。
電車やトーマス、消防車が好きなこと。
寝かしつけるつもりが、ときどき一緒に寝てしまうこと。
彼女が息子との日々を、嬉しそうに話すので、ついつい、いろんなことを教えてもらった。
池袋で電車の扉が開くと人が一気に流れだし、僕たちも押されて離れ離れになってしまった。
邪魔にならないように気をつけながら彼女が電車から出てくるのを待って、階段を降りるときにそっと彼女の手をとった。
「階段、危ないですから」
階段から改札までの短い距離。彼女がカバンから定期券を取り出すために手を離すまで、ずっとドキドキしていた。恥ずかしくて、なにか話かけるきっかけを探していた。
改札を出たあとに、無理やり言葉をひねり出した。
「あっ、、、あの!そういえば」
「どうしたの?」
「携帯、また使いますか?家にもう一度、電話したほうがいいかなって」
「そうだね。ありがとう」
彼女に携帯電話を渡すと、「これからバスに乗って帰るよ」と聞こえた。駅のポスターをぼんやり眺めながら電話が終わるのを待っていると、背中を優しくトントンとたたかれて、携帯を返してもらった。
今日はもう繋ぐことはないかなと思っていた彼女の手が、少し触れた。
「今日は大変でしたね!気をつけて帰ってくださいね」
「うん。ありがとう!本当に助かったよ」
「今度、息子さんと遊んだりしたいな」
「本当?じゃあ楽しみにしているね」
「明日また会社で」
「またね」
手を振って別れたあと、長かったようで短かった彼女との時間を思い出しながら駅の構内を歩いた。帰宅ラッシュの時間をやり過ごすためにスターバックスでカフェモカを頼んだ。ふと顔をあげるとちょうど日が暮れて、夜が街を包みこもうとしていた。
明日も仕事だし、そろそろ帰ろうかと腰をあげたとき、携帯電話が鳴った。知らないアドレスからのメールだった。
「今日はありがとう。一緒にいてくれて、とても助かりました」
携帯電話が手から滑り落ちた。慌てて拾い上げて残りの文を読む。
「さっき、勝手に自分のアドレス宛に空メール送ったの。ごめんね。。。もし良かったら、今度また一緒に帰りたいな。保育園の帰り道に小さな公園があるから、そこで少し遊んで帰る?」
もう一度、携帯電話を落としそうになった。
夜風は涼しくて気持ちいいのに、子どもたちの髪を順番に乾かしていたら少し汗をかいてしまった。
「なんだか付き合いはじめのころを思い出すね」
心を見透かされたようで、少しギョッとした。
「ちょうど、この夏のはじまりだったよね」
「最初は保育園の近くの公園で遊んで、次はファミレスで一緒にごはん食べて」
「そのあと男二人でお風呂に入ったんだっけ」
「懐かしいね」
リビング入ってきた長男が「ねぇねぇ、何の話?」と笑いながら急に話かけてきた。
どこから聞いていたのだろうと、少し笑って夕食の支度をする。
今日もまた夜が僕たちの街を包みこんでいく。今年も夏がはじまる。