夫が選ぶ献立の、「キラリ」とした光
ある朝、夫がキッチンで何かを作っている音で目が覚めた。
とはいえそれはいつものことなので、特に気を留めるでもなく「おはよう」と告げたあと、顔を洗い、歯を磨く。一息ついて珈琲でも淹れるかと思っていたら、満足げな顔をした夫がサンドイッチをのせた皿を持ってきた。
それは、ハムレタスサンドイッチだった。
見るだけでシャキッと音がしそうな幾重にも重なるレタスと、彩りを添える四層ほどのロースハム。黄緑とピンク、そして食パンの白が織りなす断面はとても色鮮やかで、起き抜けのお腹がぐうと鳴く。
とはいえ私は、そんなにハムレタスサンドイッチというものが好きなわけではなかった。ネガティブな理由はないけれど、パン屋やコンビニでサンドイッチを自分で選ぶ時の選択肢にはまず入ってこない。いつもツナサンドやたまごサンドに負けてしまい、自分で選んで食べたことは、これまで一度もないのだった。
けれども夫が作ったハムレタスサンドは、寝ぼけ眼がぱっちりと開くほどにおいしかった。シャキッとしたレタスの瑞々しさと、ジューシーなハムと辛子マヨネーズの濃厚さがよくマッチする。えっ、おいしいおいしい、何これ、と言って食べていた私をじっと見つめ、夫はこう告げた。
「ゆかちゃん、レタスを“下”にして食べなきゃダメだよ。全然変わってくるからね」
ハム側の断面を下にして食べていた私を見て、彼はそう教えてくれた。え、食べ方までこだわりがあるんですか!驚きはそのまま、おそるおそる言われた通りにしてみると、たしかに下の歯の方が強く食感を感じるからなのか、レタスの「シャキッ」をよりダイレクトに感じ、まったく味わいが違う。思わず彼の顔を見て笑みがこぼれる。夫は満足そうである。
それからというもの、私はこのサンドイッチを、定期的にリクエストするようになった。
そんな「ハムレタスサンド」のような夫の献立が、私の中にいくつもある。
たとえばそれは、私のお腹が減っていなくて「今日は軽くすませるから、夜ごはんはひとりで食べてくれる?」と言った日に彼が自分のために作った「春菊と豚肉のシンプルな鍋」だったり、深夜にいそいそと酒のツマミにと作り始めた、オイルサーディンの缶詰にスライスした玉ねぎをのせてガスコンロで熱しただけの名もなき料理だったりと、そんなものだ。
ニコニコ、ニヤニヤ、うれしそうに、彼が自分のために作る料理。それらはどれもあまりにおいしそうで、実際においしくて、私はいつも「やっぱり一口ちょうだい」と言って、結局は半分ほどペロリと平らげてしまうのであった。
夫と一緒にいると、彼は自分を喜ばせることが本当に上手な人だなあとしみじみ思う。いろんなことに対して思うのだけれど、特に食事においてそう思う。毎食「自分が何を食べるのか」ということにとても誠実というか、貪欲なのだ。
凝った料理を作る、かと思えば袋麺などの簡単なものですませる、ハムレタスサンドのような何の変哲のない料理も作る。力の入れようはそれぞれ違い、決して「どの料理も全力でこだわって作る」わけではない。ないのだけれど、彼が作る料理は、彼が選ぶ献立は、どれもキラリと光って見える。
袋麺ひとつとっても、ある時はねぎをたっぷり入れたり、素ラーメンだったり、自分なりのその日の気分に合わせて選ぶ。
前述のサンドイッチもシンプルに見えるけれど、話を聞いてみるとレタスを氷水で締めて水をしっかり切って、パンは必ず超熟で、トーストは軽く2分半、という彼のこだわりがあるそうだ。
「何を食べるか」ということに彼はいつも全力で、楽しんでいる。その楽しみが食材へのこだわりになり、ひとつひとつの工程に表れ、そして結果としてキラリと料理が光るのだと思った。
夫といると、私は魅力的な本屋さんにいる時と同じような感覚を覚える。あれも、これも、おいしそう。食べてみたい、その味を知りたい(たまに作ってみたい)。欲望が、次から次へと湧き出てくる。
買う予定がなかった本までつい買ってしまう、「私はこれが読みたかったんだ!」という感情に気づかせてくれる本屋がいい本屋だと思うけど、彼はまさに、私の食の欲望に気づかせてくれる「いい本屋」のような存在なのだ。
彼の頭の中には、これまで作ってきた料理や、本や動画やウェブで得た知識、そして「これを作ってみたい」という欲望がずらりと並んでいる。好奇心と愛と、そしてすばらしいエゴのもとにある探究心。それらは私の食への意識を刺激する。
身近に楽しそうな人がいるということは、その行為が好きになるための何よりものきっかけになると思う。私はどちらかといえば献立を決めることが苦手で、たまに何を食べていいかわからなくなってしまうことがあるのだけれど、彼と一緒にいるようになってからは、自分の中から「これが食べたい」「あれを作ってみたい」と思う気持ちが湧き出てくるようになった。
今、毎日の私たちの食事は、おおまかなリクエストを私がして、その中から具体的に彼が献立を決めてくれることが多い。在宅で仕事をしている時は、各自ですませることもあるけれど、一緒に食べる時は、お互いが食べたいものをなんとなく慮りながらも、基本的には、作るほうが献立の主導権を握っている。
先日、夫の仕事が遅くなると言うので、私がひさしぶりに夕飯を作ることになった。梅雨に入り、雨の降る寒い日だった。「あたたかい肉豆腐が食べたい」と、そう思った。
焼き豆腐をキッチンペーパーで包んで水分を抜き、炒めた牛肉は一度取り出してみる。
以前の私だったら、そんな面倒な手間はかけなかったかもしれない。「全部いっしょくたに、そのまま煮ればいいでしょ」と思っていた。けれど、その一手間で、料理がおいしくなるのなら──。今、私は「そうしたくて」、楽しくて、そうしているのだった。
器は、唐津の隆太窯さんで買ったものと、益子で買った船串篤司さんのものを選ぶ。そうやって完成した食卓は、ちゃんと、光ってくれていた。
おいしい、おいしい、と食べてくれる夫の顔を見て、幸せだなと、そう思う。自分と、相手と、食材と対話を重ね、キラリと光る食卓を、私はこの人とこれからも幾度となく重ねたいと思うのだった。